第25話 助けたかっただけの朝
朝のパンを半分だけ残した。
殿下に呼ばれたら、すぐ演習場へ出たい。残りは戻ってから食べるつもりで、私は皮を腕へ抱えた。
昨夕は二人で台詞を読んだ。殿下のおじいさんは途中で自分の声に戻り、山へ夕飯を頼まれても、自分も食べると返してくる。
ダフネの声は、その場にはなかった。
今日は一周、頼まれたものを上から確かめればいい。
その後なら、窓の歌がどう聞こえるか尋ねてもよい気がした。
八時十分、セルヴォ隊長が皮を広げた。
私の肩へ掛けるより先に、左の翼の根元を指で押さえる。
白い鱗の下に、以前からある細い線が見えた。
「前より伸びている。ここは曲げ過ぎるな」
「今日は広場の周りを一周です」
「一周なら、大きく回れ。戻った後、もう一度見せなさい」
布を裂いた時のような口は、まだどこにもない。
皮を戻して肩へ掛け、留める前に線の部分を撫でた。昨日、ボタンに引っかけたことも伝える。隊長は表と裏を見直し、引っかけた場所に穴はないと言った。
キリさんは広場の北側で、着地する範囲へ人を入れないよう立っている。
殿下の声が、朝の空気に広がった。
「旗を持つ人、先に場所へ。山が来ます。まだ歌わないで。僕もまだ歌わない!」
その最後の一言で、鍋のお父さんが笑った。
八時三十二分、銀かんを留める。
帽子をかぶった殿下が、小さくなる。
彼は足元の袋を取って手を上げた。中には、私が残した分とは別の朝のパンが入っている。
「降りたら食べよう。僕の分は、今度はまだあるから」
鼻の下で、パンの匂いがする。
翼を広げると、旗の人が箱の外へ下がった。
その場所を目へ収め、私は地面を蹴る。
広場の旗は、上から見ると扇の形だった。
客席の側から一本ずつ広がる、虹の色。昨日は旗を持っていただけの人たちが、手を上げて私を見る。
門の向こうに、市場の赤い屋根が並んでいる。
さらに遠くの空は明るく、採石場のある方角まで、何も私を遮らない。
そこまで行く時間はないので、広場を見直した。
黄色の旗が、少し客席へ寄っている。
赤い旗から曲がって着地に向かうと、その黄色が視界の下へ隠れる。ここを直すだけで、戻る人が見つけやすくなりそうだ。
大きく回って、下のキリさんへ声を落とす。
「黄色の旗を、箱の方へ少しお願いします!」
彼女が手を振り、旗の人へ向かった。
これで、一周の仕事は終わる。
北側の空き地へ向きを変えた時、殿下の帽子が飛んだ。
彼が追いかける。袋を持ったままなので、腕がうまく伸びない。帽子は一度地面へ落ち、また転がった。
私は笑いながら、首をそちらへ向ける。
私なら先へ行ける。
そう思った足の先に、まだ地面はなかった。
帽子は舞台裏へ転がっていく。そこまで行けば、ダフネの窓も見える。
私の下で、殿下が袋を鍋のお父さんへ渡す。
それで両手が空いた。もう自分で拾える。そう気づいたのに、翼はまだ広がっていた。
地面で窓を見ることを断られた私は、上からなら、彼女を邪魔せずに見られると思った。
この高さで声を出せば、山の台詞も広場へ届く。窓の三つへ向けて、小さく鼻を振る。
舞台の裏に人影があった。
ダフネなのか、別の人なのか、顔はまだ分からない。でも、こっちへ手を上げている。
気づいてくれたのだろうか。
昨日までは、見るなと言われた。今日は、必要な仕事をした帰りだ。彼女の目の中で、私はまだ余計なことをする人のままだろうか。
首を伸ばせば、顔がもう少し見える。
どちらも確かめてから帰ろう。
広場へ向いていた体を、強く左へひねった。
薄い音が、耳のすぐ後ろでした。
紙を裂く時の音に似ている。でも皮の重さが、片方だけ肩から外れるように変わった。
左の翼の根元が、白い鱗の下で開いている。
風がそこを抜けた。
体が傾く。右の翼だけで戻そうとして、今度は左へ落ちる。
地面の箱が近づいた。
「ニカ、首を上げるな! 前を見る!」
声の方へ目を戻す。
北側の空き地。さっきキリさんが空けた場所へ、行けばいい。
でも左の翼は、風をつかむたび裂け目が広がりそうだった。
足を前へ出し、尻尾を地面から離す。
殿下が、旗を抱えて走っている。
逃げるのかと思ったら、着地の道から人を遠ざけていた。
「箱より後ろへ! 荷物は置いて、みんなこっちに!」
私の左足が敷石へ当たった。
ひどく硬い音がして、体が前へ滑る。鼻を上げたら倒れる。キリさんの声を聞きながら、胸と顎を地面へ近づけた。
土が口へ入る。
足の奥に、遅れて痛みが来た。
広場の向こうで旗が動き、誰かが鈴を鳴らしかけて、やめる。
動かずに息をする。
空はもう、鼻先の上にしかなかった。
キリさんは、皮へ手を入れる前に足の位置を見た。
殿下が来ようとすると、腕で止める。
「先に道を空けろ。人間へ戻してから呼ぶ」
口に入った土を吐く。
「左の足が、痛いです」
「踏ん張るな。その姿勢で戻す」
八時四十分、銀かんが外れた。
急に近くなった地面で、片膝をつく。
左足首へ体重を掛けると、鋭い痛みが走った。キリさんの腕が肩を支え、すぐ殿下が反対へ回る。
舞台から駆けてきたダフネが、私の前で止まった。
口を開きかけ、先に地面へ落ちた皮を見る。
「……山は、今日は出さない」
その言葉が、私の足より先に胸へ当たった。
「歩くだけなら、まだ」
「今は歩く話もするな」
彼女は短く言い、私を椅子へ移す。
殿下の帽子が、ダフネの手にあった。
彼女が拾ったらしい。麦藁の縁へ、青い糸が一つ付いていた。
舞台を直していた人たちが、広場の外へ集まっていた。
旗の人は、両腕に虹色を抱えている。黄色の旗が他の旗と重なり、どこを直すつもりだったか、もう誰にも見せられない。
私はその人へ、口を開いた。
「黄色は、箱の方へ」
「キリさんが言ってくれました。今は、その話はいいから」
彼は旗を置く。
足元へ布が落ちた時、まだ手が震えているのを見た。
私が飛びたい気持ちと、地上から落ちてくる私を見た気持ちは、同じものではない。
少し離れた所で、殿下が飛ぶ人の列を止めていた。
隊長が先に全員を棚へ戻し、着地の道を確かめると言う。今日の地上の予行は中止になり、鍋のお父さんは子を迎えに戻ることになった。
飛行を止めたことに、列の青年が不満の声を出す。
隊長は返事をせず、広場に散った箱を数えた。
その人たちの朝まで、私は止めてしまった。
殿下が椅子の横へ来て、私のパンの袋を見た。
「手当する人を呼んだ。舞台にも、今日は休むと伝えてある」
「全部、殿下にさせて」
「あとで聞く。今は靴を脱がせてもらおう」
彼は私の顔へ手を伸ばし、頬についていた土を指で払った。
手当をする人は、左足首を冷たい布で包んだ。
骨を触って痛む所を確かめ、腫れが出るから今日は歩かず、明日また見ると言う。
私は椅子で、朝の半分のパンを思い出した。
食べずに来れば早く準備できる。頼まれた旗を見て、帽子まで拾って戻れば、殿下は笑う。
どれも、さっきまでできるはずだった。
殿下は袋を机へ置いた。パンの端に、指で握った跡が残っている。
「帽子のために、飛んだの?」
「昨日、見ていてと。あと、舞台も見えそうだったので」
彼は帽子を受け取り、紐を輪にして机へ置いた。
「僕が歩いて取りに行けた。紐を締めなかったのも、僕だよ」
私は返事を探した。
隊長が、裂けた皮を持って来た。
飛ぶな、と言う声は怒鳴り声ではない。白い鱗の下に開いた裂け目を、こちらへ向ける。
「この皮では、もう空へ出さない」
キリさんも同じ所を指で確かめた。
二人の手の向きが同じで、私はどちらにも言い返せなかった。
「縫ったら、元へ戻りますか」
隊長は、裂け目の両側を寄せてから離す。
縫い針が通る場所は、薄く伸びていた。
その皮を使ったのは、私の肩だ。
八時五十五分、皮はキリさんが私設台へ広げた。十時五十五分まで干す間、私は椅子からそこを見ている。
殿下が椅子を一つ持ち、隣へ座った。
パンを二つに割り、私の手へ渡す。
握った跡の方が、彼の手元へ残る。
「朝食、まだ半分だったね。先に食べよう」
私は口へ運んだ。
甘いはずのパンに、土の味がした。




