第23話 お詫びの翼は畳んで
窓板が、私の手の前を通り過ぎた。
朝の舞台裏で、殿下が新しい板を抱えている。昨日の窓と同じくらいの大きさで、角はまだ白いまま。
受け取ろうとした手を、胸の前へ戻す。
ダフネは床に座り、切れた糸を並べていた。
三つの窓の絵を描いた紙も、その隣にある。丸い染みが昨日と同じ場所に残っている。
「ダフネ、昨日は、触らないでと言われたのに持ち上げて、ごめんなさい。窓も、歌を合わせる時間も、壊しました」
彼女は糸の端を押さえたまま顔を上げた。
その目を見るため、私もしゃがむ。膝に掛けた皮が、床へ落ちそうになった。
「それ、何に使うつもり」
「屋根を人の代わりに持てたらと思って。今度は許可を訊いてから、と……」
持って来る前に訊くべきだった。昨日の窓を見て、まだこの皮を使うことから考えている。
皮を抱え直した。
「使いません。どこへ置いておけばいいですか」
「入口の箱。そこから落とさないで」
皮を箱に載せると、翼の端がまだ膝へ触れる。端まできちんと畳んでから、彼女のそばへ戻った。
空いた両手が落ち着かない。
指先を握って隠したところで、ダフネが紙をひっくり返す。
「謝ったのは聞いた。今日は、この短い糸をほどいて芯へ巻いて。絡んだままだと、どれが使えるか分かんない」
彼女が渡したのは、私の親指ほどの木の芯だった。
こんな小さい道具なら、誰でも扱える。
言いかけた言葉を、芯と一緒に持ったままにする。
赤い糸には、窓の青い絵の具がこびりついていた。
乾いて硬くなった所が、指に当たる。そこを急いで引くと、隣の糸までついて来てしまう。
そばの殿下は板を置き、窓が開く方向をキリさんへ尋ねている。
「僕がおじいさんの声を出すと、二つ目が開くんだったね」
「三つ目。二つ目はまだご飯を食べてる」
「町に僕より食べる人がいるのか」
「そこで張り合わないで。歌ってから出てきて」
殿下が小さく歌い、キリさんが板の蝶番を指で動かした。
糸を引くと、窓は途中で引っかかる。
私は顔を上げかけ、芯へ目を戻す。
今やっていることを忘れると、赤い糸は輪を増やすだけだ。母の裁縫箱で、こういう輪を作って怒られたことがある。
その時は結局、母が全部ほどいた。
今日は、指で輪の中をたどっていく。
糸が四つに分かれた頃、背後で板を削る音が止まった。
「こちらは通る。次の窓を合わせる」
振り向くと、新しい板の角が丸くなっている。
あの丸い角へ、ダフネは白い刷毛を当てる。私は何も言わず、手に残った最後の輪をほどいた。
巻き終えた芯を渡すと、彼女は長さを確かめ、短いものを一本だけ戻す。
「これは鈴に使う。こっちの結び目を、小さくできる?」
頼まれた結び目に爪を入れる。
硬くて、なかなか開かない。引けば速いけれど、糸はきっと切れる。
私の指の間で、芯がころりと転がった。
ダフネが片手で受け、そのまま机へ置く。
目は糸へ戻ったまま。
拾ってくれた手へ、お礼を言う声が小さくなった。
絵の具が足りなくなった。
道具箱へ首を突っ込んだ殿下が、空の小壺を三つ並べる。全部青の壺で、底に少しずつ残っている。
「これを一つに集めても、空の色までは戻らないかな」
「壺の底まで描きたいわけじゃない。右の家の屋根だけよ」
彼女は私へ、空壺を一つ差し出す。
「同じ色を買ってきて。南門の絵の道具屋。大きい壺は買わないで、持て余すから」
袋へ入れる前に、必要なのはこの一壺ぶんでよいか確かめた。
ダフネは指を一本立てる。
殿下が私の手へ硬貨を載せたので、買い直す代金は自分で出すと伝える。彼は硬貨を取り戻し、代わりに藁紙を一枚渡した。
「この裏に、店の道を書いた。道を知っていても、最後の角を曲がり過ぎると八百屋へ着くからね。僕は着いた」
紙の端に、林檎の絵が描かれている。
彼が道を説明している間、ダフネは新しい板を舞台へ運んだ。私は壺を指で押さえ、走らずに門へ向かう。
十五分で市場。道具屋の戸は細く、私が皮を着ていたら顔も入らない。
棚から壺を下ろした女性に、ダフネの使った青を見せる。
新しい絵の具を一滴、古い壺の縁へ重ねてもらった。
「こっちの青より、少し白いね。空に使うの?」
「家の屋根です。小さな窓が三つあって、その一つの屋根に」
そこまで答えると、店の人は壺を光へかざした。
「だったら、この青を少し混ぜよう。乾いたら暗くなるから」
私は混ぜてもらった色を乾くまで待った。すぐ帰れば、次の仕事にも間に合うかもしれない。けれど色が違えば、彼女の欲しい屋根は作れない。
紙を扇ぐと、殿下の林檎が壺の下で揺れた。
私も昨日、訊かれたことだけ答えていたら。
思いかけて、店の人の手へ目を戻す。
店の人は乾いた色を並べ、どちらがいいか私へ尋ねた。
一つは濃く、一つは昨日の壺の縁と同じ。濃い方が、客席から目立ちそうに見える。
でも指を置くのは、壺の縁へつながる方。
「こっちね。混ぜた分は余るけど、取っておく?」
「いえ、いま買うのは一壺だけで」
私が答えると、彼女は余った青を自分の壺へ戻した。
欲しいものを持ち帰るためだけに、ずいぶん待っている。山の大きな口で道具を運ぶ時なら、この待ち時間を惜しんで先へ進んでいたと思う。
袋の底へ、壺が割れないよう藁紙を丸めて入れる。
店の人が扉を押さえてくれたので、私はそこを抜けて振り向いた。
「この屋根が出来上がったら、祭で見てください。歌の途中で窓が開きます」
「昼の店番がいるからねえ。娘に言っとくよ」
店へ戻る背中へ、お礼を言う。
私が出る舞台だから、全員が来るわけでもないのだ。
壺へ栓をしてもらった袋の口を、もう一度確かめた。
帰り道の菓子屋で止まったのは、焼き菓子を買うためではなかった。買って持って帰れば、一緒に食べてくれるだろうか、と考えてしまったからだ。
窓越しに丸い菓子を見て、それから踵を返す。
お詫びの代わりに、甘いものを机へ積むのも違う気がした。
舞台へ戻ると、殿下が三つ目の窓の後ろへ入っていた。
ダフネの歌の間に、低いおじいさんの声が混ざる。
それが合図で小さな窓が開いた時、顔を出す殿下の頭が枠につかえた。
「家を大きくするより、僕の頭を小さくする方が早い?」
「顔だけ出して。肩を入れない」
彼はもう一度引っ込み、今度は顎を枠へ載せる。
窓の中に、頬杖をつく人みたいな王子様の顔が浮かんだ。
笑う私を見ると、ダフネは歌を止めた。
「絵の具、買えた?」
壺を差し出す。
彼女は袖で手を拭いてから蓋を開け、白い板へ少し塗る。
それだけで、窓の新しい角が古い青とつながる。
「同じ色だ」
受け取った言葉を、手の中で転がすように聞いた。
でも彼女は続けて、午後は仕掛けを確かめるから人を少なくしたいと言う。
「ニカは、山の台詞を部屋で覚えておいて。まだ変えるかもしれないけど、今ある分だけ」
「ここで、見ていても?」
「今日は嫌」
短い声だった。
壺から目を上げた彼女へ、私は分かったと答える。許してくれたかどうか訊く言葉は、袋を畳む間に飲み込んだ。
箱の皮を持ち、台詞の紙を受け取る。
山の最初の一言に、赤い線が引かれていた。
台詞は『夕飯はまだか』。
元気よく読める気がしなかった。
殿下は私を追い、入口まで来た。
私の袋が空なのを見ても、何を買ってきたかは訊かない。
「僕は午後までここにいる。夕方、台詞を聞かせてくれる?」
「歌に合わせなくても、いいですか」
「僕も、老人の声を覚えたい。途中でお腹がすく老人になってしまうから」
私は紙の端を持ち直す。
殿下が、舞台へ椅子を二つ運んでいた。窓の向こうの客からどう見えるか、離れて確かめるための椅子だという。
片方の背もたれへ手を掛けると、彼は笑った。
「ここは君が座る場所にもなる。でも、今日のダフネが嫌なら、今日は空けておこう」
椅子を押さずに離した。
午後は部屋で山の台詞を読む。
明日も、今日の続きが全部済むとは限らない。
箱から持ち帰った皮は、まだ一度も使っていなかった。




