第22話 その舞台はあたしの仕事
家の屋根が、傾いている。
舞台の奥へ入った私は、反射的にそこへ手を伸ばした。青い屋根の絵が指先で揺れ、下の小窓が三つ、違う方へ開く。
後ろからダフネに腕を取られた。
「触らないで。今、開く順番を合わせてる」
彼女の袖口は青い。絵の具を拭くのに使ったらしい布が、床で固まっていた。
屋根から手を離す。
「倒れそうに見えたので」
「倒すの。その後、窓に明かりがついて、家の人が山を見に出てくるの」
歌の終わりに祭へ行く山は、途中で小さな町を通る。
それぞれの家で夕飯を食べていた人たちが、一緒に出てくる場面だと教えてもらった。
朝、後ろの客には見えにくいと思った窓。その小ささは、山から見下ろす町を作るためらしい。
「では、三つ全部を一度に開けたら」
「順番があるって、言ったでしょ」
刷毛を持ち直した彼女の手には、屋根を直す道具がない。
窓板をつなぐ赤い糸が、舞台の裏で何本も交差している。糸を引く人はどこへ立つのか、屋根を支える人は必要なのか。訊こうとした時、パンの人が試しの歌詞を持って来た。
ダフネはそちらへ顔を向ける。
「その歌、最後だけもう一度聞かせて。あたしの台詞と重なってる」
二人が舞台の表へ出て、殿下も後を追った。
私は屋根のそばに残る。傾きはさっきより深くなった気がする。
まだ開くはずのない窓が、かたり、と鳴った。
午後は、山の登場だけ一度確かめる予定だった。
皮は十時四十八分に乾き終え、私の部屋の椅子に掛かっている。取って戻ると、舞台の表から歌が聞こえてきた。
パンの人が長く伸ばした声へ、ダフネが短く返す。
舞台裏に、ダフネの書いた紙が置かれていた。
窓の絵の下へ、何度も線を引き直してある。読めたのは『一つ目、まだ食べてる』という言葉。二つ目の隣には、匙を持った小さな顔が描かれていた。
山の役の私には、どの顔も舞台裏から見えない。
客の方へ向いている窓を、こっちから支えておけばいいのだろう。そう考えた。歌っている彼女を呼び戻し、糸の一本ずつを説明してもらうより、すぐ持ち上げた方が早い。
紙の端に、丸い染みがある。
昨日、私たちがお茶を飲んでいた間も、彼女はこの窓を作っていたのかもしれない。作業が済んだら一緒に焼き菓子を食べよう。朝の台と同じように、手伝いが終われば、今度も一緒にお茶を飲めるはずだった。
頭を通す前、窓へ背を向けて帽子を置いた。
人間の私なら、今すぐ伸ばせるのはこの手だけ。その手では屋根の真ん中まで届かないことが、さっきから気になって仕方ない。
屋根が今にも窓へ落ちそうだったので、私は皮を肩へ回した。山になる用意なら、どのみちする。こちらを先に持っておけば、彼女は歌だけに集中できる。
十三時二十分。キリさんに銀かんを留めたことを告げ、舞台裏の広い空き地へ首を伸ばす。
「その位置では本番の山の向きと違う。何をする」
「屋根を支えます。人が戻ってきたら降ろします」
キリさんが回り込む間に、鼻先を青い板の下へ入れた。
軽い。
小さな窓が目の下で揺れる。遠くの歌に合わせて、左の窓が開いた。
中には白い布が掛かっていて、動くと向こうの明かりが見える。
これなら、客席の後ろからもきれいに見えるかもしれない。
鼻を少し高くする。
赤い糸が、私の顎の下で張った。
その時、ダフネの声が途切れた。
「ニカ、下ろして!」
急いで首を戻すと、屋根が私の鼻を追って滑る。窓板の隙間へ角が入り、もう一度上げようとした途端、ぱん、と乾いた音がした。
白い布が三枚とも落ちた。
ダフネは駆け寄ったが、板の下へ入る前にキリさんの腕が止める。
「ニカ、そのまま。板を受ける。動くな」
鼻の上で屋根が揺れ、私は息を止める。
目を閉じたら落としそうで、糸の切れた先だけを見ていた。
殿下とキリさんが両端を受け、少しずつ地面へ降ろす。板が離れたところで、私も顎を伏せた。
折れた窓の角に、青い絵の具が薄く付いている。
青はまだ、乾いていなかった。
「誰が、それを持ってって頼んだの」
聞こえた声に、顔を上げられない。
ダフネの足元へ、切れた赤い糸が巻きついていた。
「倒れそうだったから、支えれば、歌が」
「倒すって言った。触らないでって言った」
声が少し掠れている。さっきまで歌っていた喉で、私へ言葉を投げる。
「窓が勝手に開いたんです。それで、屋根が」
「それを確かめてたの。どの糸を緩めれば、どの窓が開くか。あたしが」
私は口を閉じた。
下から見たら不安定だった。だが彼女がどこを見ていたか、一度も確かめていない。
地面に散った布を殿下が拾う。ダフネはその手から一枚取り、折れた窓へ当てた。
布だけでは、小さな家は戻らない。
「大きな家なら、私が立て直せます。窓も」
自分で言いながら、彼女の目が変わるのを見た。
歌っている時より、ずっとまっすぐこちらを見ている。
「あたしは、この家を作ってるの」
鼻先から窓までの距離が、ひどく遠い。
人間の時なら、その板を手へ取って顔を見て話せるのに、今は手を出すと家の残りまで潰してしまう。
「その舞台はあたしの仕事。全部ニカの見せ場にしないで」
殿下が布を下ろした。
キリさんは私の横へ来て、銀かんに手を添える。
「今、戻るぞ」
私が首を伏せると、十三時二十六分、皮が肩へ戻った。
ダフネの靴が近い。
でも彼女はもう、私へ顔を向けていなかった。
折れた窓板は、角をつなぎ直して塗り直すことになった。
糸は結び目だけを増やすと、開く順が変わるという。殿下が新しい糸を取りに行き、パンの人は歌詞の布を持って帰った。
明日の試演で合わせる、と言い置いて。
ダフネは返事をせず、切れた糸を短く巻く。
「ごめんなさい。残った板を、私が片づけます」
「そのまま置いて。どれが割れたか見たい」
指が板の前で止まった。
ダフネの青い袖を見る。さっき彼女が私の腕を取った時に付いた青が、私の袖にも残っている。
洗えば消える。
板の塗り直しには、どれだけ掛かるのだろう。
私が皮を抱え直すと、彼女はようやく口を開いた。
「今日は帰って。山の登場も、もう確かめられないから」
それは、次の仕事を探せという声ではなかった。
舞台から降りた。
背中に歌は聞こえてこない。キリさんが工具箱を開ける音だけが続いている。
皮を私設台へ広げる時、殿下が戻ってきた。
新しい赤い糸を持つ手へ、私が目を落とす。
「私に持たせてください。運ぶくらいは」
「ダフネに、僕が持ってくると言った」
そのまま彼は糸を袖の下へ隠す。さっき青い板を受けた袖も、少し染まっていた。
顔を見ようとしたら、先に彼が隣へしゃがむ。
「ここを留めよう。風で落ちたら、洗い直しになってしまう」
皮の端を横木へ固定する間、赤い糸は彼の膝にある。
手を伸ばせば取れる。でも、手を伸ばす理由が見つからなかった。
「大きな体なら、みんなの手が空くと思っていました」
殿下は私の結んだ紐を、一度引いて確かめる。
「今朝、ダフネは長椅子を貸さなかったね」
「使うからって」
「僕は、窓を引く役をしたかった。頼まれていたんだ。家の人が顔を出す時、後ろでこっそり歌う役も」
そう言って、小さな声を一節出す。
普段の殿下の声と違う、年を取ったパン屋のおじいさんのような声だった。
私は途中で笑いかけ、口を押さえた。
彼が膝から糸を取る。
「だから、直すのを手伝いに戻る。ニカを悪者にしたいわけじゃないけれど、僕の出番もなくなった」
殿下の靴が遠ざかる。
皮を干し終えた私は、その場に一人残った。
二時間後には、また使える。
今日の最後の一回も残っている。窓を立て直すことくらい、竜になれば簡単そうだった。
舞台の方で、殿下が名前を呼ばれる。
「殿下、こっち持って。動かす前に、あたしに見せてね」
私は、干したばかりの皮から手を離した。
私の名前は、呼ばれていない。




