第21話 干す場所に鍵はいらない
「十時まで待ちなさい。先に飛ぶ者の点検をする」
セルヴォ隊長の腰で、鍵が鳴った。
朝の乾燥棚には三人が並んでいる。私の皮は昨夕、乾いてから部屋へ持ち帰ったので、今は腕の上。閉じた戸の中に忘れ物があるわけではない。
「今日は舞台の道具を運ぶだけです。飛ぶ順は要りません」
「使った後、棚を使うなら待つことだ」
そう言い残し、隊長は先頭の青年を連れて行く。青年が貸してもらった皮は、薄い茶色で、畳むと私のものより小さい。
その後ろの女性が、脇に抱えた皮を持ち直した。飛行の約束をしているらしく、朝日と閉じた戸を交互に見ている。
私は列を抜けた。
昨日の窓辺で、皮はちゃんと乾いていた。あそこなら鍵はない。ただ、私の部屋の窓一つに広げると、廊下まで翼がはみ出す。
そこへ殿下が、口にパンをくわえてやって来た。
片手に鍋、片手に折り畳んだ布。忙しい運び屋のような姿なのに、パンだけは落とさない。
「殿下、洗濯物を干す場所は空いていますか」
パンが止まる。
「僕の上着のため? 今朝はジャムをこぼしていないよ」
「皮です。できれば、上着より少し大きい場所を」
殿下は私の腕を見て、ようやくパンを手に取った。
「少し、で済むかは怪しいね」
城の洗濯場は、午前中いっぱい白い敷布で埋まるそうだ。
代わりに教えてもらったのが、竜舎の裏にある古い鉢置き場。壁に窓はないけれど、朝から午後まで日陰で、左右から風が通る。
割れた植木鉢に土だけが残り、細い草が一本伸びていた。
キリさんはそこを一周し、石の角を靴で押す。
「地面へ直接置くな。砂が銀かんへ入る。台を二つと、長い横木が要る」
鍋と布が、殿下の足元へ下ろされる。
「舞台の長椅子なら、今は使っていない。ダフネに聞こう」
使っていないなら借りてよい、と言いかけ、口を閉じる。
昨日、鍋のお父さんは、赤い布を直そうとして手を放しかけた。持ち主に確かめるくらい、先にできる。
ダフネは舞台で床の端へ白い線を描いていた。
「長椅子は駄目。昼から幕の奥で使うの」
即答だった。
殿下がそれならと腰を上げる前に、彼女は刷毛を桶へ戻す。
「でも、古い衣装の箱なら二つ空いた。中身、あたしが片づけたから」
箱は長椅子ほど重くない。人間でも一つずつ運べそうなのに、鉢置き場へ置く横木が厄介だった。
竜舎の梁を直した時の余りで、私の腕をいっぱいに伸ばしても端まで届かない。殿下がもう一方を持ち、歩くたびに門へ引っかける。
「この門は昨日まで広かったのにね」
「横向きで入れるな。端から入れろ」
言われた通りにすると、門はちゃんと広くなる。
ただし奥で曲がれず、殿下の袖が棘のある草に捕まった。
笑っている私にも棘が飛んでくる。
「ニカ、笑う分だけ袖を引いて」
「引いたら裂けそうです。殿下がもう少しこちらへ」
近づいた肩が、私の頬に触れた。
袖の棘をつまんで抜くまで、殿下が動かない。木を支える手へ力を入れながら、呼吸だけいつもより静かだった。
抜けた棘を見せると、彼はそれを大げさに避ける。
「王子の袖に勝った英雄だ。植木鉢へ帰ってもらおう」
割れた鉢へ棘を捨てる。なぜか指が、さっきの布の柔らかさを覚えていた。
最後に、箱の上へ載せた横木を紐で留める。
結び方を教えたのは洗濯場の女性で、布を干し終えたついでに見に来てくれた。
「その結び目だと、片づける時にほどけなくなるよ」
太い指が私の結び目へ入る。二度動かすだけで、引けば締まり、端を持てばほどける形になった。
竜の口で引くならどこを持てばいいか尋ねると、女性は首を振る。
「口で持つために、わざわざ結んだわけじゃないよ。帰りは誰かに頼みな」
私は紐から手を離す。
キリさんが皮を広げてみた。翼の端が鉢に当たるので、箱を少しずらす。裾の下へ手を入れると、両側から抜ける風が指の間を通る。
「ここなら使える。空へ出す点検は、正式な棚へ持って行って受けろ」
「この場所で乾かしてから、持っていけばいいんですね」
「そうだ。乾いたか見る人間まで、一緒に閉じ込める必要はない」
棚に札を付けようとして、殿下が紙を取り出した。
殿下が「誰でも」と書き始めたところで、洗濯場の女性が横から止める。
「誰でも置いたら、私の濡れた敷布が隣に来る。翼は飛べなくてもいいの?」
殿下は紙を裏返した。
「皮を干す台。濡れた敷布は別の紐へ。……字が多いな。王子より、僕の字の方が場所を取る」
字が大きすぎて、最後の『へ』だけ横向きになった札が完成する。
私の皮一枚で、箱はほとんど埋まる。たくさん作れば竜隊の棚を空にできる、とまではいかない。
でも今日の私には、ここが一つあれば足りた。
台ができた途端、パンの人が大きな布を持って来た。
祭で使う歌詞の布らしい。赤い文字がまだ濡れていて、両手の指まで染まっている。
「風が通るなら、これも乾くでしょう」
確かに乾く。けれど私の皮と同時には置けない。
困って布の端を持った私から、殿下がひょいと角を取った。
「あっちの紐は空いている。字の向きを直して掛けよう。僕も読みたいから」
布の文字は逆さに書かれていた。
舞台の客から見える向きを考えて裏から書き、そのまま持って来たという。殿下が裏へ回ると、ようやく『パン一つ』が読める。
私は、胸の前で逆さのパンを追いかけて笑った。
人が集まるほど台は便利になるはずなのに、一枚増えるたび、置く場所を探し直す。女王陛下の棚を借りた時には、こういう手間はキリさんが全部してくれていた。
台へ戻った彼女に訊くと、返事は早い。
「次は自分で断れ。ここもいっぱいだ」
皮を持って立つ自分の腕へ目を落とす。誰のものも載せていない、新しい台なのに、もう順番を決める仕事がついて来た。
道具の箱を運ぶため、八時四十分に銀かんを留めた。
木枠の中へ鼻を入れ、箱を押す。昨日まで人間の腰ほどだった小道が、鉢の陰へ細く潜っていくように見える。
先で殿下が鍋をどけ、キリさんが後ろの尻尾を見ている。
途中でモロが顔を出した。
皮が自分のものだと分かるのか、私の翼の端へ鼻を寄せる。そのまま横木の方へ向かい、顎を載せようとした。
「モロ、それは顎置きではありません」
私の声で止まる気はなく、殿下の持っているパンを見ると、ようやく首が戻る。
「これは甘い。君のは杏子だよ」
モロは袋を見てから、大きく息を吐いた。
横木の上の札が、ひっくり返る。
風通しは十分すぎるほどだ。
私は道具の箱を舞台脇まで押し、八時四十八分に人間へ戻った。皮を二人と台へ広げ、十時四十八分まで触らず干しておく。
札を裏返して戻す時、洗濯場の女性が、余った紐を私の手へ置いた。
「雨の日は内側へ移しな。屋根のある通路も、物置になってるだけだから」
そこは見てから決めようと答えた。今日は晴れている。明日の天気まで、いま全部運び切る必要はない。
正式な棚の前を通ると、朝の女性がまだ待っていた。
もう一人、皮を抱えた青年が増えている。隊長は一人ずつ翼の端を確かめ、気に入らない留め方をほどかせていた。
私の台ができても、飛びたい人の列は縮まらない。
隊長がこちらへ目を向けたので、キリさんが今日の皮は地上用だと伝える。返ってきたのは、短い手振りだけ。
殿下は私へ鍋を渡し、舞台の方へ急ぐ。
「ダフネの新しい歌、聞き損ねたくない」
私も追いかけた。
舞台には、背の低い家の絵が並んでいる。小さな窓が三つ。城の遠くから見たら、客席の後ろには何が描いてあるのか分からなそうだ。
ダフネがその一つへ白い刷毛を当てる。
「明日の午後、窓に明かりを入れるの。歌の途中で順に開くんだよ」
「もっと大きな家にしたら、後ろからでも見えそうです」
彼女は刷毛を止めた。
「この大きさで作る。開く順番があるから」
細かい窓を作るより、大きい窓を一つ立てる方が楽そうなのに。
私は家の絵の上から舞台を覗いた。竜の頭なら、ちょうど向こうに出せる。
殿下の声に呼ばれ、鍋を抱え直す。
朝の仕事が終わったばかりで、次に運べるものがもう見つかった気がしていた。




