第19話 殿下のひざは貸しません
殿下の膝には、朝ご飯が三人ぶん載っていた。
一つは、彼の皿。
もう一つは、私の大きな盆。
残りは、絵師のおじさんが置いた塗料の箱だった。
膝は二つしかないのに、なぜそんなに載るのか。
竜の私が首を下げると、殿下が盆をこちらへ寄せた。塗料の箱も、つられて動く。
「ニカ。僕が食べる前に、膝だけがいっぱいになったよ」
「殿下にも、お腹がいっぱいになるまで、食べていただきたいです」
「うん。そっちは空いてる」
市場の裏の空き地に、私は前足を揃えていた。
八時十一分に皮を着て、朝食を食べている。大きな盆は、昨日の下見のあと殿下が部屋から取ってきてくれたものだ。
人間でも竜でも好きな形で。
それなら、市場のパンを竜の口で食べたら、どんな感じか知りたくなった。
私の希望を聞いた殿下は、先にパン屋の人へ声を掛けていた。空き地へ盆を置き、キリさんが時計を持って待つ。
パンの中に甘い実が入っていると聞いて、食べに来た山だ。
パン屋の人は、朝の歌を歌わなかった。
忙しいので、焼けた順に袋を出している。
昨日の舞台の時には声がよく響いた人なのに、今は短く、二つ、三つ、と数えるだけだ。
その手から受け取ったパンを、殿下が盆へ載せた。
私は鼻を低くし、口へ一つ入れる。
温かい。
竜の口だと、中の蜜が舌の同じところへ届かなかった。人間の時なら小さく齧っただろう台の端も、一緒に口へ入ってしまう。
全部を一度に食べると、甘い方と焼けた方が、喧嘩をしないで並んでいた。
その感想を殿下へ話す。
彼は自分のパンを二つに割り、端から一口食べた。
「僕の口だと、いまは焼けた方が先に来るね。次に蜜の方を食べてみよう」
手が盆の下から出ない。
食べている間だけ、塗料の箱を持っていてもらいたいと頼んだのは絵師だった。顔を描くのはまだ後のはずなのに、彼はもう私の口を見ていた。
「口を開けた顔の方が、また来たなあ。笑ってる時より、食べてる方が丸いぞ」
「口を開けなければ、食べられませんので」
「そう。その顔を描きたいんだ。看板の横の小さい札へ」
その声を聞いた人が、空き地の端へ来た。
市場の表では、まだ朝の籠が行き来している。私を見つけた子が父の手を引き、その父がまた、別の人へ声を掛ける。
黒い竜がパンを食べている。
あの看板の、人間になる方だ。
私の名前も呼ばれた。
ニカ、と。
嬉しくて返事をしたら、鼻の前へ小さな札が何枚も出てきた。
その場で売れるなら、私の食べる顔をもう少し見たいという。
殿下が皿を持ち上げた。
「絵の方は、食べ終わってからでいいかな。いまは二人とも、お腹の方が空いてる」
絵師は頷く。
けれど塗料の箱の横へ、今度は別の人が売る小札を置こうとした。
自分の机より王子様の膝の方が、来た人によく見えると思ったのかもしれない。
殿下のパンが、盆の下へ隠れる。
札と箱へ鼻を寄せた。
「殿下のひざは、貸しません」
思ったより大きい声だった。
絵師が箱へ手を伸ばし、小札の人も同時に手を引っこめる。
殿下だけが、私を見ていた。
「うん。僕も貸す前に、ちょっと聞いてほしかった」
「お食事の皿を、先に置くところです」
「そう。僕にも、僕の皿を置く膝が一つ欲しい」
人の膝を借りる竜が、自分も一つ欲しいと答える。
キリさんが横から木の箱を一つ持ってきた。
小札の方は、そこへ置く。
殿下の膝から塗料が離れ、私の盆も、もう一つの箱へ移った。
彼がやっと両手を空ける。
「ありがとう。これで、君の方へ顔を向けたまま食べられる」
自分の膝を見て食べていた時間を、私へ向けてくれるらしい。
頷こうとし、盆を動かさないように首を少しだけ下げた。
その間にも、市場の人は声を掛けてくる。
旗を高くするために、午後に竜の体を使ってもらえないか。
屋根の上へ籠を運んでほしい。
祭の当日、自分の店の前で一度飛んでくれないか。
私が答えるより先に、キリさんが一つずつ、場所はどこかと聞いた。
その場で引き受けることは、しない。
最後の店の人は、もう別の竜が飛ぶ時間を取っている道だったので、勝手に重ねられないと彼女が言った。
口へ残ったパンを入れる。
殿下も、まだ半分を持っていた。
声を掛けられるだけで、食べ終えたことにはならない。
彼が自分の皿を箱の上へ置いた。
「ここからは、食べる二人の時間に戻っていい?」
「はい」
その返事だけは、すぐできた。
横に座る人がほしいときには、竜へなる必要がない。
私は今日、人間のまま来ても、同じ朝食を一緒に食べられただろう。
けれど、竜の口で食べたいと望んだことも、引っこめなくてよかった。
最後の甘い端を口へ入れ、あとで人間の方でも一口試したいと告げる。
殿下は新しいパンを袋へ残した。
キリさんの時計が、八時十九分を示した。
私は周りを空けてもらい、銀かんを外す。
小さくなると、盆の高さが腰より上へ来た。
さっき鼻を置いた場所へ、今度は手を置ける。
殿下の隣の椅子に座った。
絵師が戻ってきた時には、二人の皿もちゃんと載っていた。
机代わりの箱の上。
塗料は、その向こうの別の箱にある。
自分のパンを手で二つに分け、台の端と、蜜の多い方を順に食べた。
今は、小さな口の方。
中の実が舌へ触れると、先ほどより酸味のあるところまで分かった。
「こちらは、お茶と一緒の方が好きです」
「ああ。僕も。蜜の方へ先にお茶を飲むと、よく合うんだよ」
その話をしていると、絵師が私の顔を見た。
「そうか。戻っても、同じ顔で食べるんだな」
「同じように、美味しいので」
彼は筆を持つ手を止めた。
どちらの顔を札へ描くか、少し迷ったように見えた。私はパンを皿へ置き、選びたい方を描いてくださいと伝える。
今日の私は、まだ顔の仕事を引き受けていない。
それでも、食べる顔を見ていてもらうくらいなら、構わなかった。
絵師は、人間の私を小さな札へ描いた。
黒い竜の顔は、隣の札へ。どちらにも口の端へ蜜がついている。
私は、いつの間にこんな顔を見られたのかと殿下を見た。
「二つとも、美味しそうに食べてたよ。僕にも、その顔を一つ分けてほしいくらい」
「絵をでしょうか」
「うん。今日は蜜の方。緑の方と並べたい」
おじさんへ注文する声を聞きながら、私は布で口を拭いた。
緑と蜜が上着の中へ並ぶ。
次に殿下と食べる時には、何もついていない顔を見せたい。それを絵へ描いてほしいと言ったら、今度は私が長く座ってしまうだろうか。
殿下が新しい札を受け取った。
私は自分から、もう一つを絵師へお願いした。蜜の小さな顔を、家の手紙へ入れるためだ。
父には、昼ご飯より先に、朝ご飯をちゃんと食べた顔が届くことになった。
通りの方へ戻る時、殿下が新しい袋を持った。
甘いパンを、二つずつ。
午後の用事の前に、ダフネにもあげるつもりだという。
その袋を持つ膝の方へ、私は一度目をやった。
「まだ気になる?」
「私まで、棚のように使っていたので」
「君の盆は、僕が持つって言ったぶんだよ。でも、黙ってほかのものまで置かれると、ちょっと困った」
私が彼の膝を守るつもりで言った言葉は、本人の希望を全部聞く前のものだった。
殿下はそれを叱らず、自分の方の持ちたかったものを教える。
手の中の袋へ目を向けた。
「次は、私の皿も机へ置きます」
「うん。君が隣にいるぶんには、場所を空けておくね」
足が、止まる。
どこの隣だろう、と考えた顔を見たのか、彼は慌てて袋を持ち上げた。
「椅子の方。いまのは、椅子の方だよ」
私の顔へ、朝の日が当たる。
暑いのは、全部が日差しのせいではなさそうだった。
キリさんが後ろから来た。
飛ぶ時間の重なっていた一件の返事を、隊で確かめるという。
「午後、隊長へ聞く。空の順は必要だが、地上で待つ出番まで同じ順なのか」
彼女の靴が、私たちより先に南門へ向かった。
殿下は私の歩き出す方を待ち、同じ速さでついてきた。




