第18話 大きな体と小さな客席
「山が客席を食べる場面は、ありません」
私が図の赤い線を指すと、ダフネは帽子を机へ置いた。
旅人が被るはずの帽子だ。
いまは客席の代わりに載せてある。
その帽子の向こうから、セルヴォ隊長がこちらを見る。
「十二メートルの翼を、紙の丸へ入れるな。君が広げれば、ここへ届く」
指が、赤線の二列を横へ払った。
王城の南に用意された竜祭の会場には、もう木の台が組まれている。まだ低い段が二つだけだが、昨日の応援席のように、人が並んで座るものだった。
その前へ、私が竜で出る。
図の黒い竜は、私の本当の体より少し小さい。
尾を短く描いたせいで、赤線は少なくて済んでいた。
ダフネが鉛筆を取る。
「それ、あたしの絵が違ってた。ごめん。尾の方、まだ伸びるのかと思って」
「大きくなった時には、そこまでで全部です」
彼女が尾を長く描いた。
旅人の帽子まで届く。
帽子を机の端へ寄せる。これでは、帽子が無事でも客の顔を尾で払ってしまう。
隊長の線は、全部が間違いではなかった。
「私も昔、畳んだ翼の幅だけで囲いを作った。広げた時に通れなくなり、客を全員立たせ直した。椅子より先に、動く翼を見る」
その言葉を聞いて、私は伸ばした尾の絵へ指を戻した。私が書き足していなかった部分を、彼は初めから見ていた。
午後の下見には、朝の旗の人たちも来ていた。
旗の棒を持つ人、パンの歌を歌う人、小鍋を運ぶ人。
それぞれ自分の役に使うものを持ち、舞台の脇で待っている。
竜の体でどこまで近づけるかを見るため、皮の袋を開く。
ニカが足を置く場所は、先にキリさんが空けてくれた。
十三時二十四分。
皮を留めると、低い舞台が足の下へ入りそうなくらい小さくなった。
その舞台に、ダフネが立つ。
旅人の帽子を被り、木の匙を掲げた。
「ここで山が来て、旅人の行く道を塞ぐの。あたしは、山の左へ」
彼女は私の前足の向こうへ行った。
見える。
私からは。
けれど客の方へ顔を向けたら、ダフネの帽子は、私の鼻の下に隠れていた。
殿下が客席の一番前へ座る。
「ニカの鼻が、旅人を食べた」
「まだ、食べていません」
「うん。食べるのはおやつの方だけにしてほしいね。ダフネ、もう二歩くらい、こっちへ出られる?」
旅人が前へ出る。
私の鼻も、反対へ引いた。
殿下の顔が、やっと彼女の帽子の方を向く。
背後で、旗の人が棒を持ち上げた。
今度は、その旗が私の頬へ掛かる。
ダフネがぱっと匙を下ろした。
「待った。虹色の山になった」
止まる時にも、舞台では返事が要るのだろうか。
私はしばらく考えて、口を開いた。
「お菓子をよこせ」
「その山なら、店の包みごともらえそうだよ」
旗の人が笑い、自分の棒を持って前へ回った。
棒の長さを変えなくても、立つところを変えれば、虹色は彼の顔の横で揺れる。
私が大きいので、動いてもらう人が増えてしまう。
ダフネは、自分の帽子を押さえて客席へ下りた。
殿下の隣へ座り、私の顔を見てから、図を一度畳む。
隊長は飛行の道を指していた。
山が翼を広げて登場し、舞台の周りを一度飛ぶ。
観客はその背中まで見られる。
そのあとで地上へ降り、旅人が歌う。
図の外に書いてあったものを、私は今、よく知った。
飛べる方が楽しいだろう、と私も思った。空から客の方へ顔を向ければ、町で出会った人も探せるかもしれない。
けれど翼を広げれば、舞台の近くへ座る人は、そこから動かなければならない。
借り手が飛ぶ時の大きさを、昨日までは下から見ていた。
今日は自分の背中の向こうへ、木の台がある。
舞台の周りを飛ぶことと、みんなが旅人を見ることを、一度にできるだろうか。
ダフネが私の足元へ来た。
「ニカ。この歌で、山が飛ばなきゃいけないところ、あった?」
「ございません。お菓子をもらうために、歩いてついていくので」
「じゃあ、山は歩く。空を回るのは、別の歌でやりたい」
隊長が、図を引き取ろうとした。
彼女は畳んだまま手元へ置く。
「旅人の歌を聞いてもらいたいの。山の背中を見てる時に、夕飯の歌詞を言っても、あたしの声へ戻ってこない」
隊長は、遠くの旗へ目をやった。
竜が飛び立つ空き地には、別の借り手が待っている。
そちらを指してから、彼は私へ向き直った。
「空へ出さないなら、この場所を取る意味が薄い。竜祭は、竜が飛ぶ祭だ」
私の頭が、ダフネの帽子の向こうへ下がる。
低い声で同じ台詞を返してみた。
「山は、お菓子がある方へ参ります」
旅人が振り返る。
笑った口が、次の歌の始まりへ変わった。
旗の人が棒を上げ、鍋の人が、銅の縁を匙で叩く。
パンの人は、自分の歌をどこへ入れるか迷ったあとで、ダフネの休む一節へ、自分の店の名前を言った。
殿下が客席で声を上げた。
「それは、山も店へ行きたくなるね」
隊長の指が、止まった。
女王陛下は、その時、会場へ着いた。
上がっていた旗を一度見て、次に私の足元の時計を見る。
キリさんが、変身してまだ六分だと答えた。
陛下は頷き、客席の後ろへ立つ。
「続けて。ここから、私にも聞こえるか確かめたい」
ダフネは声を張り直さなかった。
いま出している声のままで、鍋の方へ手を振り、自分の夕飯を探して歩く。
私はついていく山になる。
前へ出るのは鼻だけ。足はキリさんが決めた位置から動かさず、旗の人の後ろへ顔を向けた。
鍋へ届きたい山が、旅人の歌を聞き終えてから近づく。
四日前の遊びの声と、少し違う順番だった。
女王陛下が手を上げた。
「そこ。人へ戻った時のニカの椅子は、どこです」
皆が、私を見た。
客席の一番前には殿下の椅子がある。脇には道具を置く箱。けれど山の役を終えた私が、歌の続きを見るところはなかった。
竜へなる支度は考えた。
人へ戻ったあとも舞台を見たいとは、紙に書いていない。
ダフネが帽子を取り、椅子の横へ置いた。
「殿下の隣。歌い終わったら、あたしも座れる方にします」
「うん。僕が三つ取ると、また真ん中が増えそうだけど」
私は口を閉じた。
竜の声で笑うと、歌の終わりへ大きい音が重なってしまう。
今は喋らず、旅人が最後の一節を歌う方を見た。
十三時三十三分に、人間へ戻った。
皮を広げる間に、殿下が椅子を運んでくる。
座れば、さっき自分の顔のあった高さより、ずっと低い舞台が見えた。
ここなら、続きが聞ける。
陛下が二列の赤線を見た。
「飛んで回る場面を外すなら、その分を戻せますか」
キリさんは尾の通る場所を指し、その後ろの道具を片づければ、客席の一部を戻せると答えた。
全部ではない。
山の顔があるところには、やはり人を座らせられない。
隊長はその幅だけは譲らず、陛下もそこへ椅子を押しこまなかった。
その代わり、舞台の脇へ人間の出番を置くことになった。
旗を振る人、鍋を運ぶ人、歌う人。
竜へなれなくても、客の前へ出る枠だ。
陛下が私たちへ、短い試演のままもう少し形を作っておくよう言った。
祭の朝と昼は竜の飛行を見せ、歌の時間には、この場所を地上の出番にする。
最後まで空だけを見ていなくてもよい。
隊長は残る線を図へ引き、キリさんへ、足と尾が外へ出ないよう見ておけと指示した。
私はその線を見て、舞台の周回を飛べなくなったことも覚えておく。
飛びたいところは、また別にある。
いま作った席から、ダフネを見られるのなら、今日はこっちを取った。
会場を出る時、殿下が新しい椅子へもう一度座った。
「君が人に戻る頃にも、僕はここにいるよ。タルトは祭の舞台に出せないけど」
「鍋がありますので」
「歌の鍋だね。明日は、本当に食べる方も見に行こうか。市場で朝ご飯を食べたい」
私は、今日一度使った皮の袋を見た。
話を終える頃には十五時になっていた。乾くまで、まだ三十三分ある。
けれど明日の市場で座る椅子の方には、その時間を数える必要がなかった。
「はい。朝なら、パンの歌を聞いたお店にも伺えますね」
殿下が手の中の図を畳む。
私たちが座るところを、今度はどちらも小さい丸で描けた。




