第17話 翼を貸してほしい人たち
椅子が三つ、竜舎の前へ運ばれてきた。
どれも小さく、どれも空だった。
最初の男の人が椅子を日陰へ置き、次の人がそれを端へ動かす。そのまた次の人も、日陰をモロへ譲るように、椅子の脚を掴んだ。
三人とも、私の方を見た。
「これで、貸してもらえるんでしょうか」
モロへ顔を向けた。
頭を前足へ載せ、目を閉じている。
日陰は欲しいらしいが、椅子が三つも来るのは要らなかったらしい。
「椅子の列の方が、竜になりそうだね」
殿下が私の横へ来た。
昨日の招待紙は、部屋へ大切に置いてきた。今日は皮の袋を持っているが、自分が使うために運んだものだ。
貸してほしい人がこんなに集まるとは思わなかった。
話を聞いたところ、庭師の一人が、私が椅子を動かして皮を借りたのだと市場で話したらしい。
その話では椅子が五つになっていた。
どこで増えたのだろう。
「椅子を動かせば貸してもらえる、という約束ではございません」
「でも、同じようにすれば」
「私にも、分からないのです。私の皮ではありませんから」
皮の端を手へ出して見せかけ、やめた。
その人たちが私の手から受け取れば、貸す人まで私へ変わってしまう。
モロの鼻が動いた。
椅子の向こうに持ってきた、菓子の包みを嗅いでいる。甘い匂いなので、彼女の好みとは違う。
男の人が包みを開けると、モロは鼻を少し離した。
露骨だ。
私なら、いただいてからお礼を言ったと思う。
ほかにも、何人かが通りの方で待っていた。
竜祭の日、自分も翼を広げてみたい。家の子どもへ大きな姿を見せたい。看板の宣伝に竜を描いたので、本物になって踊りたい。
それぞれ、何をしたいかまで持ってきていた。
飛ぶのが怖い人の横で聞くと、空の方へ向かう望みは、案外たくさんある。
キリさんが椅子を戻す場所を示した。
「モロが貸す相手を決める。今は、こちらへ来いという合図を出していない」
最初の人が、もう一度椅子へ手を伸ばす。
彼女はその手を止めた。
「三脚で足りる。四脚にするな」
「竜の足の数になると、かえって座れなくなるかもね」
持ってきた皮の袋へ触れる。
今日の三回を分ければ、三人に着てもらえると思った人もいる。
けれど、同じ皮を続けて着るには、二時間ずつ待たなければならない。そもそも、それを誰が借りるか私に決められない。
誰でも一度ずつ、という言葉は、とてもよい言葉に見えた。
言ってしまえば、集まった人たちは喜ぶだろう。
モロ以外は。
「私が借りている間は、私が勝手に次の方へ渡せません。モロが皆さんに同じ顔を貸すと、言ってくれたわけではないので」
袋を足元へ戻す。
酸っぱい杏子を一つ差し出すと、モロは目を開く。
それを食べたあとで、また目を閉じた。
私の肩も、来た人の肩も押さない。
今日は、椅子を端へ寄せただけで終わる朝だった。
ダフネが紙を持って到着した。
私が集まった人の話をすると、彼女は最初に、菓子を持ってきた人へ声を掛ける。
「看板の踊りって、どんなの?」
「うちの店の、虹色の旗を。竜が持って回れば、通りの向こうからでも見えると思って」
彼が包みの下の布を出した。
端へ赤や黄色の細い紐が縫いつけてあり、持ち上げると虹のような色が揺れる。
これは竜の爪へ掛けるつもりだったのだろう。
その紐へ指を当てる。
人間の私の指にさえ、すぐ絡みつく。
「これは、大きい爪だと切ってしまいそうです」
「ああ。そうか。なら、棒の方を」
彼は細い棒へ布を巻き、腕を上げた。
虹色の旗が、顔の横へ上がる。
殿下が二歩後ろへ下がった。
「それでもよく見えるよ。顔の方が隠れなければ、誰の店かも分かりそうだ」
菓子屋の人は、旗の下から自分の顔を出した。
みんなに見られたのが初めてだったのか、少しだけ顎を引く。
その横で、別の人が、自分は歌も考えていたと言った。
「歌いたいなら、口は今もあるでしょ。あたしも、人間のまま歌うよ」
「でも、その。竜の声の方が」
「どこを聞かせたいの。声の低さ? 歌詞?」
彼は迷ったあとで、歌詞だと答えた。
その場で一節歌う。
竜祭のお客がパンを二つ買って、片方を恋人へあげる歌だった。
そのパンの袋に店の名前が入っているところまで歌ったので、殿下がすぐ店の方を指した。
「それは、竜の低い声より、人の声でよく聞きたいね。最後に、店の名前が隠れちゃうと困るし」
笑って、歌の最後だけもう一度聞く。
竜へならなくても、ひとつ新しい店を覚えた。
キリさんは、集まった人へ何をしたいか聞き直した。
見る人を集めたい方。
踊りたい方。
子どもへ見せたいのが、空へ行くところではなく、自分が祭へ出るところだった方。
最後の人は、自分の子がいつも見る側なので、一度は父の方を見てほしいと言った。
私には、その人を空へ乗せられない。
でも、ダフネが持ってきた紙には、歌の旅人の後ろへ並ぶ人が描いてあった。
「この場面で、山に夕飯の鍋を運んでくるの。旗の人も、歌う人も、お祭りへ来る役なら入れる。家の子に、どこに出るか言えるよ」
「それなら、舞台へ?」
「まだ紙の上。これから場所を決める。あたしが全部教えるから、って約束はできないけど、相談なら」
私は、ついその人たちの道具を運ぼうとした。
キリさんが自分の時計を持ち上げる。
「まず、役を選ばせろ。道具は、そのあとだ」
旗を振る人は、棒を自分で持った。
歌う人は、パンの歌をもう一節教えてくれた。
子どもに見せたいお父さんは、鍋を運ぶ役が自分の台所と同じだから、それがいいと言った。
竜になった山が来ても、その人たちの役は変わらない。
私は山の声を思い出し、口の中で「お菓子をよこせ」を言ってみた。
いつもの声のままだったので、ダフネが笑う。
「今日は、その山には普通の皿で足りるね」
最初の椅子を運んだ人は、役を選ばなかった。
「自分は、空へ行きたいんです。歌でも旗でもなく」
それを聞いて、私は布の端を離した。
人間のまま参加する場所がある、と言えば、全部同じ願いになるわけではなかった。
「それは、私には代わりをお渡しできません」
彼は椅子を持ち上げる。
残念そうな顔をしたまま、ほかの竜のところでも話を聞いてみると教えてくれた。
私は、やっぱりこちらの役へ来てくださいとは言わなかった。飛びたい方の顔なら、自分がいちばんよく知っている。
彼が通りへ戻ると、モロの鼻から長い息が出た。
「椅子が一つ減ったね」
「はい。あの方が見たいものまでは、変えられませんでした」
殿下は持ちかけた励ましを言わず、椅子のなくなった場所へ、自分の足を少し寄せた。
モロは、みんなが帰り支度をする頃に目を開けた。
手の中の布を見たあと、空いた日陰へ足を伸ばす。
私は袋を拾い、彼女が皮を返せと言わないか、少し待った。
鼻が肩へ寄る。
押されて一歩下がると、モロの顎が、今まで私の足のあった涼しい石へ落ちた。
ここも昼寝の場所に加えたかったらしい。
「貸した相手も、寝る場所を塞げば追い出されるんだね」
「今日は、私の方も椅子でした」
椅子を動かしただけで借りられるのなら、今日は、この庭じゅうの人に貸すことになる。
モロはそこまで望んでいない。
私は、借りた一枚をしっかり持って、彼女の足の前を空けた。
人間の役を選んだ三人が、午後の客席の下見にも来ることになった。
キリさんは公開受付へ、その人たちの希望を伝えに行く。正式な参加を決めるのは、まだこれからだ。
紙の客席を見ていたダフネが、急に口を閉じた。
指先が、描いた二列の上で止まっている。
今朝受け取った竜祭の図では、そこへ赤い線が引いてあった。
ニカが竜の姿で出るなら、人の座る場所は削る。
隊長からの指示だという。
私は客席の小さな丸を数えた。
自分の体の置き場所が、誰かの見る場所を消していた。
殿下が、紙を私とダフネの間へ広げ直す。
「午後、実際に行ってみよう。紙の丸より、君の歩く場所の方を見たい」




