第16話 好きな形で来てください
好きな形で、と書かれた紙を、三度読み直した。
人間の形でよいのだろうか。
その考えが浮かぶたびに、皮の袋を手に持ってしまう。招待には、用事がないと殿下が言った。なら、変身する用意まで持っていくのは、ちがう用事を持ちこむことになるのかもしれない。
袋を椅子へ置いた。
やっぱり持とうとして、指が袋の口へ掛かる。
そこへ、キリさんが部屋の戸を叩いた。
「十五時だ。お茶は向こうだぞ」
「あの。夕方の見回りに、何かございましたら」
「夕方は私が見る。仕事の時間を勝手に交換するな」
彼女は袋を取り上げず、私の上着を見た。
内側に、招待の紙がある。
「それを持てば、宛名の人は行ける」
紙の宛名を指で確かめた。
ニカ、と書いてある。
墨竜でも、借り手でもない。
鏡へ一度顔を向け、ずれた髪留めを元へ戻す。以前、母から渡された古い黄色の髪留めだ。
初めて城へ来た時にも、これを付けていた。
けれど今は、お会いする方を選んで、その方からも招かれている。
袋を椅子へ残して、部屋を出る。
低いテラスには、椅子が二つあった。
その前の広いところに、大きな盆が一つ。
こちらの机には、小さな盆が一つ。
殿下が両方の間で、布をめくっていた。
「ああ。こっちに来たんだね」
小さい方の椅子を引いてくれる。
大きい盆の前で、足が止まった。
おやつが、あんなに大きかったら。
一回だけ使って、また人間へ戻ってくるのは、好きな形で来るのと同じ意味にしていただけるだろうか。
「そっちも食べたい?」
「見ただけで、分かってしまいましたか」
「うん。でも中身はこっちと同じ。大きい口だと落とすから、一つの皿にしただけだよ」
盆の布が開かれる。
杏子のタルトは、普通の大きさだった。
ただ、皿と、そのまわりの布が大きい。鼻が触れても崩れないように、盆の縁が少し高くなっている。
彼がその皿を、小さい机へ移した。
空いた盆は壁へ立て掛ける。
「どっちの君が来ても、僕も同じものを食べられるようにしたんだ」
竜の方が得だと思っていた私の顔が、少し下へ向いた。
両方の口の大きさを考えた人は、分ける前から、二人で食べることを決めていたらしい。
椅子へ腰を下ろす。
殿下が反対側へ座る。
その二つの席の間に、皮を広げる場所はなかった。
ナイフを持った殿下が、タルトへ細い線を引く。
一本、それからもう一本。
分けた一切れは、杏子の厚さより細かった。
「おやつに、そんな細い線は要りません」
「僕のぶんも数えてるんだよ。八つに分ければ、四つずつになる」
「二つに分けても、一つずつになります」
「うん。でも四つずつの方が、長くここにいられる気がした」
私はお茶のカップへ手を伸ばしかけて、止めた。
長くいたいのは、私の方だけではないのだろうか。
殿下はタルトをさらに分けようとして、杏子の実を一つ、皿の端へ落とした。
失敗の方まで細くしなくてよいのに。
私は自分の皿を出す。
「それは、私のぶんへ」
「崩れた方を?」
「よく熟れた実が、いちばんたくさん載っています」
彼が笑い、崩れた一切れを私へくれた。
蜜が少し、皿へついてくる。
フォークを入れると、台の焼き目が割れた。人間の口へ入れる大きさを、自分で選べるおやつだった。
甘い。
酸味も少しある。
母が包みに入れた実も、こうして煮れば好きになれるのかもしれない。
殿下も食べる時には、いつものように喋ると思った。
なのに、一口目のあとで、彼は私を見たまま少し黙った。
皿を見下ろす。
何かついているのだろうか。
蜜が髪留めまで飛んだら、さすがにお行儀が悪い。
「顔に、何かございますか」
「笑ったから。朝の絵に似てるなと思って」
朝の絵。
市場で描いてもらったのは、三日前だ。
私が尋ねると、彼は上着の内側へ手を入れ、あの小さな札を出した。
「今日の朝も見たから、朝の絵になってた」
札の私には、緑の頬がある。
今の私にはない。
それでも、殿下の手の中で、同じくらい口が開いていた。
絵の緑のところを指で触りたい。触ったら、自分の顔まで彼の手へ近づく気がして、私はカップの方へ手を戻した。
カップの柄が、いつもより熱い。
彼の絵を真似して、招待の紙を机へ載せた。
角に杏子の種が描いてある。
「殿下は、絵もお描きになるのですね」
「その種なら。実の方を描いたら、ちょっと卵に似てしまった」
裏には、丸いものが一つあった。
卵の方には葉っぱがついている。
丸いものの上の葉を指した。
「これがあれば、杏子と分かります」
「葉のついた卵もあるかもしれない」
「それなら、殿下はまだ見つかっていない卵をお描きになったのです」
笑った時、二人のフォークが同じ皿へ向いた。
残りが少ない。
食べるたびに一切れずつ皿へ取っていたので、いま自分の皿は空になっている。
机の上へ残った最後の一切れを、私は見た。
彼も見ている。
お互いに譲れば、最後の一切れはいつまでも残ってしまう。
「これも、半分にすればよいですか」
「そうすると、もっと細くなるね」
「細くするための線でしたのに」
「うん。そろそろ帰ってもいい時間なんだけど、僕がまだ半分にしたい」
王子様が、最後の皿を持った。
私へ決めさせず、自分の手でナイフを入れる。
片方の実が大きかったので、そこだけさらに半分へ割って、私の方へ一つ載せた。
今度は、それを受け取るだけにする。
カップのお茶が減るより遅く、私は最後の杏子を食べた。
食べ終えたあと、殿下はナイフを布へ載せた。
「殿下が、お選びになったのですか。このタルトも」
「うん。顔合わせのお茶では、何が好きかより先に、誰が先に皿を取るか決まってしまうから。今日は僕が選んで、君が選んだ方を食べてくれてよかった」
私は最後の小さな欠片を、フォークで集めた。まだ残っているところを食べたい顔は、上品ではないと思う。
それでも、彼は皿を下げなかった。
「次も、杏子の多いところをいただきます」
「じゃあ、次は僕にも、一つそういうところを残して」
彼のお願いを覚えておく。それは竜になって叶える願いより、ずっと私の近くにあった。
少し風が通ると、低い手すりの向こうに、西庭が見えた。
ここからは屋根よりも木の枝の方がよく見える。小さな葉の裏が一斉に光り、枝の先に鳥が止まった。
殿下が空へ目を向ける。
午前の拍手の手は、いま机の端に置いてあった。
「いつか、僕も君の背に乗ってみたいな」
私は彼の顔を見た。
聞き違いではないかと、もう一度その口へ目を向ける。
彼は続けて喋らず、空を見ていた。
「怖いと、おっしゃいました」
「怖いよ。今も。だから、いつか」
「怖くなくなってからですか」
「そこは、まだ分からない。でも、君が空から帰ってきた時、何を見てたんだろうとは思った」
隣に乗れば、見られる。
そう言いかけて、私は口を止めた。
一人までなら乗せられると教わったが、まだ私は、人を乗せて飛んだことがない。怖い人に先に約束をして、自分の方ができないままになるのは嫌だった。
でも、その人が望んだ言葉を、できるかどうかだけでしまいたくもない。
「その時には、キリさんにも見ていただきます。私もちゃんと、乗る人の重さを覚えてから」
「うん。僕も、自分の足で乗るところまでは行くよ。君に押し上げてもらって出発するのは、少し違う気がするから」
彼が手すりへ手を当てた。
指の下の石は温かい。
私はその横へ立ち、同じ高さから西庭を見た。
今日は、飛ばなかった。
飛ばないで聞いた約束は、空へ行けるだけで聞けるものではなかった。
殿下が私の紙を畳み直し、返してくれる。
「次のお茶も、好きな形で。帰りは、僕が君を見送る方でもいい?」
私は紙を受け取った。
今度は、皮を持ってきた方がよかったかを考えない。
「はい。また、こちらの椅子へ座りたいです」
彼が戸を開け、私が廊下へ出るまで、そこに立っていてくれた。
誰を見送るか、最初から決まっていたように。




