第15話 今日は応援席にいます
「観覧には、順位は付かない」
セルヴォ隊長の指は、まだ私の順位札の上にあった。
白い札。そこへ墨竜と書けば、私が今日飛ぶ順番をもらえる。
競技場の向こうに、黄色い旗が並んでいる。近い方から三つ、四つ、その先にも小さな色が見えた。借り手が順にそこまで飛び、戻れる距離を測るのだという。
昨日から聞いていた話だった。
なのに、朝八時の競技場で、私の方はまだ皮の袋を開いていない。
「あの。今日は、見る方でもよろしいでしょうか」
隊長の手が止まる。
隣では、キリさんが私へ目を向けた。
「具合が悪いか」
「いいえ」
食べた朝食も、靴の中も、いつもと変わらない。
皮は乾いているし、今日は雨の予報もない。
飛べない理由を探せば見つかりそうだったが、ないものを言いたくなかった。
「ほかの方が飛ぶところを、ちゃんと見たいです」
遠くまで行く竜を、私はまだ下から見ているだけだ。
上から見ればもっと分かるかもしれない。けれど上へ出れば、今度は、自分が降りることを考えるだけになってしまう。
今日はダフネも来ると言っていた。
客席で一緒に杏子を食べよう、と。
その約束まで、隊長へ言うべきなのだろうか。
彼は札を重ね直した。
「飛行を見せなければ、飛行の席は取れない」
「はい。今日は、取りません」
言い終わってから、手が皮の袋を握り直す。
そんな答えでも、この場所へいてよいのだろうか。
キリさんは時計をしまい、袋の口を結んだ。
「では、観客席。私は向こうを見る」
彼女は自分の仕事の方へ行った。
私も、今日座りたい方へ足を向けた。
観客席は木の長い台だった。
西庭のいつもの石段より高いが、足は地面へ届く。上の列には、子どもを膝へ載せた人がもう並んでいた。
殿下が真ん中で、紙の袋を二つ持っている。
「ニカ。こっち。ダフネの隣を取ったよ」
「あたしも、殿下の隣を取った。だから、いま殿下が真ん中」
「お二人で取ると、真ん中が二つになるのですね」
「うん。もう一つ動けば、君も真ん中」
殿下が横へずれ、ダフネはすぐ反対側へ回った。
私は二人の間に座る。
右に青い袖、左に歌い手の袋。
いまから誰かに見せる支度をする席と、こんなに違うとは知らなかった。袋を膝へ置き、靴をきちんと前へ並べる。
ダフネが、自分の袋を開いた。
中には杏子の串がある。
丸い実の焦げたところへ、薄い蜜が固まっていた。香りが甘い方なので、私はすぐ手を伸ばす。
「最初の一人が帰ってくるまで待って。開演前に全部なくなると寂しいから」
「競技も開演なんだね」
「人に見せるなら、そうでしょ。ほら、今の子もずっとこっちを見てる」
競技場で、小さな緑の竜が頭を上げた。
竜として小さいのだが、人間の私よりはずっと大きい。背に乗っている人はいない。あの顔の中に、今日飛ぶ借り手がいる。
席から遠くても、鼻の上げ下げがよく見えた。
私も飛ぶ前には、ああやって下ばかり見ているのだろうか。
鐘が鳴る。
殿下が両手を開いた。
「行ってらっしゃい!」
緑の翼が上がり、風が前の旗を揺らした。
あっという間に体が軽くなったようで、竜は競技場の壁を越える。尾が、その動きに遅れずついていった。
殿下の両手は、もう膝の上で組まれていた。
昨日モロへおやつを渡す時には、こんなに固く組んでいなかった。
空へ上がるところを見るだけでも、彼には怖いのかもしれない。
私は何か言おうとした。
その前に、ダフネが串を一本渡してくる。
「いまの、こっちを見て飛んだね。誰が来てたんだろ」
端の席で、老夫婦が手を振っていた。
竜は黄色い旗を一つ越え、次を越える。三つ目の手前で曲がり、こちらへ戻ってきた。
殿下の手が、組んだ形からほどける。
「帰っておいで!」
その声の方が、出ていく時より大きかった。
私は口へ入れた杏子を、急いで飲みこむ。
拍手のために串を持ち替えたら、ダフネが笑った。
「食べてからでいいよ。あたし、二人ぶん叩いてる」
緑の竜が降りた。
足が土へ触れ、尾がそのあとへ落ちる。時計を持つ人が合図をし、立っていた借り手たちが近づいていった。
殿下の手が、私の横で鳴る。
老夫婦の方から、名前を呼ぶ声がした。
私も、知らない借り手へ拍手した。
飛べたことより、戻ってきた体の方を、長く見ていた。
次の竜はもっと遠くまで行った。
次の次は、最初の旗が近づくと、こちらへ鼻を向ける。
私たちは一人ずつ、帰ってくる方へ声を掛ける。
何頭目かで殿下が少し先走り、まだ出ていくところへ「帰っておいで」と叫んだ。
緑ではなく灰色の頭が、空で一度こちらを向く。
「殿下、一羽ずつ数えなよ。いまの、まだ行ってる」
「うん。僕の拍手は、帰りがいちばんうるさいから、つい帰りを待ってしまう」
「どの方も、ちゃんと戻ってほしいですものね」
「そう。長く飛ぶより、そっちを先に褒めたくなる」
そのせいで、自分は空へ乗れないのかもしれない、と言いかけたようにも聞こえた。
けれど彼は杏子の串を持ち、残った一つを齧る。
私はその口を見て、また自分の実へ戻った。
聞いてよいことと、今聞きたいことの間には、時々、串の一口ぶんがある。
向こうでキリさんが旗を立て直していた。
立ち上がって手伝おうとすると、ダフネが私の袋へ自分の肘を置いた。
「それは、あそこの人たちの仕事。こっちは、次の杏子の仕事」
紙の底に、まだ二本残っている。
一つは、酸っぱそうに赤い。
甘い方を指す。
ダフネの手が、もう一つを殿下へ差し出す。
「それ、ニカが選ばなかった方だね」
「殿下なら少し酸っぱくても、お客の顔のまま食べられるでしょ」
王子様が、立派なお客の顔を作る。
そして齧り、すぐ眉を寄せた。
私とダフネが笑ったら、殿下は同じ串をもう一度持ち上げる。
「笑った二人には、分けてあげられないからね」
「ぜひ、一人で召し上がってください」
こんなことを言ってよい王子様がいる。
座り直して、靴をもう少し前へ出す。
午前の試演が終わる頃、飛距離の札が並んだ。
私の札はない。
最初の緑の竜だった人は、六番目のところへ自分の名を見つけた。老夫婦の方へ走っていき、見ていたかと尋ねる。
見ていた、と二人が同時に答えた。
殿下は席の上から、その三人へ手を振る。
順位を聞く声は、こちらまで届かなかった。
競技場の鐘が、もう一度鳴った。
私は皮の袋を持ち上げ、使わなかった重さを膝から下ろす。
たった一回も着ていない。
家へ出かけた昨日の午前も、そうだったのに、今日は、それを誰かへ言うのが少し難しかった。
「私は、何も見せませんでしたね」
殿下は空の紙袋を畳んだ。
「うん。僕は君と一緒に見られて楽しかった」
言い足さない。
役に立つところはあった、と、あとから探してもくれない。
私も紙の袋を畳んだ。
指先に残った蜜を拭くと、甘い匂いが布へ移る。
今日の私が持って帰るものは、これでよさそうだった。
ダフネは台詞の紙を鞄へ戻し、門のところで別れた。
「あたし、今日の六番目の子みたいに、歌い終えたあと走りたい。走る相手は、まだ来てないけど」
「お父様でしょうか」
「うん。声だけならどこまでも飛ぶけど、顔は客席まで来てもらわなきゃ」
彼女は鐘の入った鞄を振った。中の鐘は布で押さえてあるので鳴らない。それでも、彼女が鳴らすつもりの音が、今は前よりよく聞こえた。
帰り道、殿下が折った紙をくれた。
順位札よりずっと小さく、角に杏子の種の絵がある。
「次の、試演でしょうか」
「僕のお茶の招待。今日の午後三時から。場所も書いたよ」
裏返すと、低いテラスと書いてある。
それから、好きな形で来てください、と。
大きな体で来る方が、何かお手伝いできるのかもしれない。
そう思って顔を上げる前に、殿下が自分の袋を指した。
「おやつはもう僕が選んだ。席へ来るほかは、特に用事がないよ」
紙を、皮の袋へ入れないで、上着の内側へしまった。
彼が私の小さな絵を入れたのと、同じところだった。




