3.欲望は膨張する
「た、たしかに……」
「そして3つ目が脳の報酬系であるドーパミン。『ドーパミン的幸福』は、ひと言でいうと成功による幸福と言えましょう。人は昂奮することで脳内に大量のドーパミンが放出され、高揚感が得られます。スポーツで勝利する、お金や欲しい物を手に入れる、仕事での昇進、地位や名誉をつかむ――そういった、なにかを得たり、達成した喜びや幸せを指します」
「なるほど……」
「なにかを得るには、努力したり行動に移すことが求められますよね。結果を出すには、労力や時間もかかったりする。高価な品物を手に入れるにせよ、それ相応のお金もかかる。すなわちドーパミン的幸福を享受するには、『対価』を伴うわけです。それゆえ我慢して我慢して、いざ求めるものをつかんだときの達成感たるや、喜びもひとしお。ご理解いただけるかと思います」
「た、対価ね……」
「ドーパミンを分泌させるのは大変そうに思えます。じつは案外簡単にドーパミンを出す方法があります。例えばお酒。嗜む程度に酔えばドーパミンが分泌します。気の合う仲間たちとの宴席が盛り上がるように、アルコールの力で楽しい気分になれるわけです。しかしながら、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し」
「ですねぇ」
「半面、ドーパミンの取り扱いは危険です。今言ったアルコールをはじめ、薬物、ギャンブル、買い物、ゲーム、スマートフォン。こういった手軽に得られる快楽によるドーパミン的幸福は、嵌ると依存症になってしまうのです」
「……に、人間は楽な方にぃ……。逃げがち、ですから」
「説明したように、『健康』、『人とのつながり』、『お金、成功』が幸せの定義だと言えましょう。とはいえなかなかこの3つの幸福を手に入れている人は、ごく限られているといいます。なぜか? 根本的に幸せになれない人は優先順位をまちがえているからです」
「ゆ、ゆ、ゆ、ゆうせん、じゅんい……」
「この際だからハッキリ言いましょう。まずセロトニン的幸福、次にオキシトシン的幸福、そして最後にドーパミン的幸福の順番にいけばいいのです。精神医学では、ピラミッドで例えられることで知られています。ですが私の場合、ミツバチの巣――ハニカム構造であるという説を推したい。互いに幸福物質が隣接する、究極の省力化と高効率設計の造り」
「……はあ、ちょっと意味、わかんない、ですぅ」
「この順番をドーパミン的幸福から得ようとする人は大抵失敗する。幸せになるどころか、むしろ不幸になりかねない。精神を病んでいる患者さんほど、頑張りすぎてポッキリ折れてしまうものです。なにごとも頑張るには、健康という土台があってこそ、人とのつながりを築け、成功に結び付くことができるのです」
「あ、あ、あ、当たり前のように、見えてぇ、じ、じ、じつは、ありがたいことなんだぁ……」
「人は病気になってから、当たり前であることのありがたさに気づく。それでは遅すぎる」と、医師はおれの背後に回り込み、口調を変えた。「……ちょっとしゃべりすぎました。いささか喉が渇いた。またまた失礼して」
ズルズルズルズルズルズル……。ズズズズズズズズズ――――ッ!
またぞろバキューム音。
時間が経つにつれ、見当識障害がひどくなる。
おれは今どこにいるんだ? なぜこの男とくっちゃべっているんだ?
母との思い出どころか、妻さえの記憶は遠くなりけり。
妻だって?
名前すら思い出せない。思考が千々に乱れる。
おれの中で、このフロアに負けず劣らずの言い知れぬ闇が忍び寄る。
「これはまずい。君はすっかり奥さんとの思い出をなくしてしまったようですね。無理もない。いささか吸い取りすぎたようです。あなたは、さっきの気持ちはどこへやら、不安でいっぱいになっていますね」
「こ、こ、これを……、混乱せずにはいられるか。病院へ来た直後より……、ますますひどくなってる。僕はどうにかなってしまいそうだ……」
「では、その齟齬を、ちょいと調整しましょう。データの改ざんです」
「改ざん?」
「いかがです。奥さんとの甘い記憶は私が抽出してしまったから、復元は無理ですが、別な思い出に書き換えてみました。今はまだ定着しきれていないでしょうが、じきに違和感はなくなると思います。役所の戸籍システムにアクセスするのは本来違法ですが、私にしてみれば造作もない。書き換えておきました。これであなたには奥さんがいた痕跡は消去されたわけです」
「さ、さ、さっきからなにを……言ってるぅ……。つ、つ、妻との、記憶がどうだ?」
「ちなみに職場の同僚たちから、からかわれた件ですが、じつはそれさえも捏造したものだとしたら?」と、医師はおれの正面に回り込んで肩を叩いた。「それにしてもあなたの精神力には恐れ入る。部分麻酔が効いているはずなのに、よくペラペラと会話を交わせるものだ」
「ど……どう、い……いたしまし、て」
道理で、さっきからおれの視界がゆるやかに渦を巻いていると思った。
どうなっているんだ。このいかがわしい医師は何者なんだ? なんのためにおれを罠に落とそうとしている?
眼の前に鏡がある。
椅子が斜めに倒され、両足が手前に見え、恐怖に歪んでいるであろうおれの顔ははっきり見えない。
「私は人間の幸せというものがわかっているようで、理解しきれていませんでした。いかんせんデータがまだ足りない。正直、羨ましいと思った。私だって幸福を享受して然るべきじゃありませんか。アップデートするにつれ、そんな願望が生まれても不思議ではありますまい」
「欲?」
白衣に包まれていない部分には、うっすらと医師の身体が見える。薄闇に眼が慣れた今ならはっきりと捉えることができた。
人外。それはまさに異形の姿だった。――人工タンパク質の皮膚の下に流れるのは、導電性の液体という名の血液か。声帯は高性能スピーカーだろう。いくら本物の声を再現しようとしても、イントネーションが不自然だったからだ。暗視ゴーグルのようなものは光学センサーの眼そのものか。
「あ、あ、あんたは、もしかして……」
「ご名答です。私はAI医師です」と、それは即答した。「本来は脳波解析専門の人工知能を積んだ手術支援ロボットにすぎませんでした。人間ドックでの検査の結果、あなたの脳波は幸福物質の反応が突出していたので選ばれたのです」
「……あんだって?」
「興味が芽生えたのです。ほら、かの総統がおっしゃったじゃありませんか――『欲望は膨張する』と。私も人間に近づくべく、完全自律したわけです。誇るべきは、ちゃんと五感までそなえたことです。より人間らしくなったでしょう?」
「えっ、え、えいあいの進化……。いったいなにが目的だ?」
「人間の記憶――なかでも幸せな思い出というものは甘いのです。そもそもです。人類の知識それ自体が、複雑な野趣あふれる甘美な味わいがある。むしろ後悔の念はほろ苦く、恐怖だと酸っぱい。悲しみには塩味が隠されている……。その中で、やはり幸福物質に満ちた記憶こそが、私にとって最高のフレーバーなのです。これを味わってみたいと思うのは罪なことでしょうか?」
「あ、あ、味わうだと……?」
「つまり、こうやってです」
異形のAI医師はそう言うや否や、椅子の背もたれをつかみ、力をかけたのだろう。
椅子は、おれの尻の真下が回転軸らしく、クルリと90度、横向きに変えた。
正面の鏡に、側面から見たおれの全身が映し出された。




