2.プルースト効果と幸せの定義
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「なるほど。あなたは奥さんがいると自信があるにもかかわらず、職場の同僚たちは、いるわけがないと笑ったわけですか」と、暗視ゴーグルみたいなごついメガネをかけた医師は乾いた声で言った。「しかしながら、奥さんとの記憶の一部がいくつか欠落していると。ご自身を信用できなくなったということですか」
「妻との馴れ初めも思い出せないし、顔もぼやけてるんです。いったい僕はどうしたんだろうか……」
おれはその体格のいい医師に訴えかけた。
医師は聴診器を弄びながらフロアを行ったり来たりしている。頭を絞ろうとすると、いくつもの記憶がシャッフルしたように眼の前で再現される。それが不快で、おれは強く眼を瞑るしかない。
「少々疲れているんでしょう。眼が充血していますし、隈もできていますね。お仕事でのストレスも重なったのかもしれません」
「いくらストレスがあるからって、こんな記憶障害が起こるものなんでしょうか?」
「だとしたら脳の病気かもしれないと、おっしゃりたいわけだ。いずれにせよ、あなたはここへ来る前に判断を誤った。役所へ行って、戸籍謄本を見せてもらうべきでしたな」と、医師は何度も頷きながら言った。肩を揺すって笑う。「この際です。CTかMRIでもやってみてもよろしいかと。その前に、いくつか問診票に沿って、精査してまいりましょう」
「……どうせまな板の鯉です。徹底的に調べてみてください」
「ところで、あなたがさっき申された、母上とバニラアイスの思い出ですが――私としましても専門家抜きにして、じつに興味深い話ですな」と、医師は薄闇の中で、ニッと歯をむいた。眼が隠されているため、どんな表情をしているのか読み取れない。一対のレンズのついたゴーグルのせいで口元しか露出していないのだ。「ご存じですか――記憶を司るのは脳のどの部位か?」
「い、いえ、そこまでは……」
「もちろん脳全体が記憶に係わっているのですが、とくに重要なのは、大脳の内側にある大脳辺縁系と呼ばれる領域。さらに踏み込めば、記憶の中枢は海馬と言えるでしょう」
「はあ」
「海馬とは、言ってみれば記憶の一時保存場所であり、司令塔です。入ってきた情報が、必要な記憶かどうかを仕分けし、重要なものは長期的記憶として大脳皮質という脳の表面の広い領域へ送る。そこで永続的に定着させるわけです。次に扁桃体。これは海馬のすぐ隣にあり、恐怖や喜びといった感情を司ります。感情が大きく揺さぶられた出来事は、この扁桃体が海馬をブーストさせるため、より強烈な記憶として刻み込まれるわけです」
「か……海馬をブースト?」
「なぜ匂いは過去の記憶を呼び覚ますのでしょうか? ふと街角でキンモクセイの香りを嗅ぎ、昔の悲しい別れを甦らせたり、石鹸の匂いで特定の誰かを思い出したりと、誰にでも心当たりがあると思います」
「なぜ、昔の記憶ばかりなんでしょうか?」
「特定の匂いを嗅いだとき、その香りに紐づいた過去の記憶が甦る現象をプルースト効果と呼びます。解剖学的にいえば、匂いを処理するルートが『記憶の海馬』や『感情の扁桃体』と目と鼻の先、つまり直通ルートにあるため、匂いを感じた瞬間、プレイバックされる仕組みになっているのです。生物が進化する過程で、『敵の臭い』や『腐った食べ物の臭気』など、瞬時に記憶と照らし合わせ危険を察知するのに、この直通ルートが発達したと考えられているとか。いやはや恐るべきは人の進化なり」
ここで医師はおれの背後に回り込んだ。それにしても落ち着きのない人だ。
「く……腐った食べ物と言えば……、ツンとした腐敗臭を嗅いだとき、思わず吐き気を催しますよね。ああいうのも防御反応だと?」
「ですな。同様に乗り物酔いにも当てはまります。乗り物酔いになった場合、脳が『毒を飲んだ』と誤解するとか。車中では、身体のバランスを司る三半規管は、『身体が揺れている』という信号をキャッチしますが、どうしても身動きがとれない状態ですので、脳は2つの矛盾した情報を受け取ってしまうわけです。五感からの感覚信号を大脳新皮質に中継する視床は、この2つの情報を分析・統合しようとします。ところが分析不能となり、エラーを引き起こす。そして脳はなぜか、『毒物を飲んだのではないか?』と飛躍し、嘔吐感を募らせるという仕組みなのです」
「お、お言葉ですが……、乗り物酔いは個人差があります。それに子どものころはひどくても、成人になるにつれ平気になる。つまり、鍛えられる面もある」
「残念ながらこれについては明らかにされておりません。人類史上、車やバス、船などの乗り物に乗るようになったのは、ごく最近のことにすぎません。乗り物酔いしやすい人は、乗り物に適応した進化がなされていないという意見もあるそうです。いずれにせよ、脳は常に毒を警戒していることになるわけです。……ところで、ここで失礼して」
ジュボッ……ジュゴゴゴゴ。ズズ――――ッ、ズルズルズルズルズル……。ズズズズ――――ッ!
「さ、さ、さっきから、聞こえる、この音はなんでしょうか? すごく気になって」
おれは心ここにあらずの面持ちで言った。さっきより呂律が回らなくなっているのは、なぜだ?
「……気になさらないで」医師はとぼけた口調で言った。湿っぽいしゃべり方なのはどういうわけか。「話がコロリと変わりますが、人間が感じる幸せとはなにか。私としましてはじつにソソられる事象でありますな」
「し、幸せの……て、定義ぃ?」
「よろしい、あなたは患者にして、探求心旺盛な生徒だ。説明致しましょう。――幸せを感じる脳内物質はドーパミンとセロトニン、オキシトシンの3つです。これらが充分に分泌されているときを、人は今、幸福を享受している状態だとされています。すなわち脳内でこの幸福物質を分泌させる条件が整えば、人はいつでも幸せになれるのです」
「……し、幸せも努力如何によって……、作り出せるってことですか」
「まずは心身の健康による幸せ――すなわち『セロトニン的幸福』。散歩しているだけで安らぎを憶える、森林浴や登山で癒される、コーヒーを飲んでいるとリラックス、といった状態ですね。この程度で幸福だと言えるのか? と反論される人もいますが、とんでもない。まず第一に、気持ちと肉体の充実ありきなのです。したがってセロトニンが分泌されているのは、幸せの基盤といえる所以でしょう」
「お……お、おっしゃるとおりかと」
「次にオキシトシン。自分一人で幸せを感じるのがセロトニン的な幸福なら、他者とのつながり、良好な関係によって生じる幸福です。夫婦、恋人、家族、気の合う友人など、誰かと一緒にすごして、楽しい、うれしい、安らぐといった気持ちが湧けば、まさしく『オキシトシン的幸福』であると言えましょう。むしろ、職場で人間関係がギクシャクしていると、仕事へ行くのも苦痛でしかない。いつの時代も、退職理由の一番は人間関係の悩みです。ここで躓いてしまうと、幸せどころか精神まで病んでしまう」




