1.バニラの記憶と空気嫁
ジュボッ……ジュゴゴゴゴ。ズズ――――ッ、ズルズルズルズルズル……。ズズズズ――――ッ!
ここはどこだ?
やけに暗い。いささか暗すぎる。
まさか歯科医で治療を受けているわけではあるまい? 口の中にノズルを突っ込まれ、唾液と、タービンから出された水をバキュームするような音がこだましている。
時折おれの背後で、うっとりするような誰かのため息が洩れるのはどういうわけか?
そういえば、かすかにバニラの香りがしないか?
バニラといえば、子どものころを連想せずにはいられない。
小学生のときだった。おれは生まれつき扁桃腺が弱く、風邪をひくたび人一倍こじらせたものだ。家で横になっていても、一向に食欲が湧かない。
「ひと口だけでいいから、しっかり食べなさい」
母はおかゆをスプーンですくって、口元まで運んでくれるのだが、おれは首をふるばかり。
とにかく頭と喉が痛くって、それどころじゃない。
「なら、他に食べたいもの言ってみて。ご希望に添えるかどうかわかんないけど」と、母はこのときは優しく寄り添ってくれる。額に手を置いてくれた。母の手のひらはひんやりして気持ちよかった。「なにか口にしないと、元気にならないよ」
と言うものだから、おれは一も二もなくバニラアイスを所望したんだ。
熱にうなされ、喉も腫れぼったいときになると、むしょうにバニラアイスを味わいたいと思った。
母はその希望を叶えてくれた。
そのときの冷たくて滑らかな舌触りと、バニラ特有の馨しさといったら――。
ジュボッ……ズズ――――ッ、ズルズルズルズルズル……。ズズズズッ!
またしてもバキューム音がすぐ近くで鳴った。
直後に、熱い湯船に浸かるようなうめき声。おれが発したわけじゃない。
しかし今、いくら椅子に縛り付けられているとはいえ、おれは歯の治療でここに来たわけじゃないのだが。
そうだ。ここは病院じゃなかったか?
だとしても、すぐ眼の前の壁には鏡らしき板がかかっており、上に黄色い常夜灯が灯っているだけで深夜のクラブみたいに暗すぎるんだが。歯科医ではなく、さながら理容室だ。こんな中で診察をするものか?
鏡には、椅子に座り、若干斜めに倒されたおれのシルエットが映っている。下半身が手前で、顔はよく見えないアングルだ。
すぐ背後で、人の気配がする。
そのうち白衣姿が横に立った。
男か。というのも動きはしなやかさに欠け、歩き方も大股だったからだ。ずいぶんと巨漢らしい。圧を感じた。
そもそもおれはなぜ病院へ足を運んだのだったか?
くそっ……。なんだこの異常なシチュエーションは。ドグラ・マグラ的な面妖さじゃないか。
――そう、憶えている。空気嫁のせいだ。みんなから、そうからかわれたんだっけ。
おれには妻がいたんだ。名は花菜。
おれにはもったいないほど、素直な性格の、容姿も清楚な女だったと思う。
結婚して3年目だったはず。倦怠期などどこ吹く風で、ラブラブの生活が続いていた。
そうだ、建ったばかりのおしゃれなアパートの入居者募集の抽選に当たり、そこで満喫していたんだ。
このままおれたちの人生は、穏やかに過ぎていくんだと信じて疑わなかった。
子どもはいなかった。この少子化のご時世、けっして生まないことに決めたわけじゃない。いずれ家族を持つつもりだった。時間ならいくらでもあった。
なのに昨日、仕事に出かけたときだ。
休憩時間に同僚とのろけ話をしたら、
「なに言ってんの。おまえ、生粋の独身だったくせに。ここ数年、彼女すらいたためしもなかったろ」と冷やかされる始末。それも一人や二人じゃない。寄ってたかって、みんなして笑うんだ。「おめでたい奴だな。とうとうこじらせやがった。これがホントの空気嫁か」
空気嫁だと?――おれの妄想だというのか?
アパートでの慎ましくも穏やかな暮らし。彼女と一緒にキャンプへ行ったことは数知れない。満天の星空を見ながら将来を語り合ったものだ。
映画を観終わった帰り道。車がパンクし、土砂降りの中、ずぶ濡れになってタイヤ交換したことも忘れられない。
金沢へ小旅行に行き、ホテルのロビーで大喧嘩したことは恥ずかしいかぎりだが。
この3年のうちに、花菜との思い出をいくつも重ねてきたつもりだ。
……しかしながら、頭を抱えずにはいられない。
そもそもである。肝心の妻との馴れ初めが思い出せないのはどういうわけか?
花菜自身の容姿さえ、はっきりリアリティをもって細部まで描き出せない。ホクロの位置はどうだったか。髪型は?
ボンヤリとした輪郭しか浮かばない。
おかしい。記憶が虫食いだらけだ。
いや、だからこそ空気嫁の件も含め、おれは不安にかられ、脳神経外科へ受診しに来たんじゃないか?
なんらかの重篤な脳の疾患にかかっているとしたら?
ところが30分前、診察室とは名ばかりで一風変わった暗所へと連れられた。
というより、ここは地下室ではないか?
薄闇の中、ガランとしたフロア。診察台と椅子があるだけで、これといった器具の類はない。
特殊な椅子に座らされ、固定バンドで腰をはじめ、四肢をしっかり固定された。
そしてたった今、眼の前に白衣姿の先生が立ったわけだ。
なぜか米軍兵士が使うような暗視ゴーグルをかけている。
不気味な恰好はなにを意味するのか?
医師はおれと向き合うと、体温を測り、血圧を測定した。
上半身を裸にされ、矢継ぎ早に、触診と視診、打診をされた。
口を開けさせて舌を見たあと、最後に聴診器で胸に当てられた。




