第87話 蒼海の朝
静かな海だった。
さっきまで深海を覆っていた圧迫感が、嘘みたいに消えている。
海霊光が、ゆっくり漂う。
まるで。
長い夜が終わった後みたいだった。
◇◇◇
「……終わった?」
ヒオリが、小さく呟く。
その声には、まだ実感がなかった。
すると。
セレスティアが静かに観測水晶を見る。
「深海侵食反応、急速消滅」
「門反応、完全沈静化」
海青の瞳が、少しだけ柔らかくなる。
「……はい」
「一旦は、終わりました」
その瞬間。
《ルミナス・アーク》艦内へ、大きな歓声が響いた。
「うぉぉぉぉぉ!!」
「生きて帰れた!!」
「深海門閉鎖成功だ!!」
海兵達が、一気に崩れ落ちる。
泣いている者まで居た。
それほど、本当に極限だった。
◇◇◇
ヒオリは、その光景を少し呆然と見ていた。
すると。
「……立てるか」
低い声。
ペケだった。
「あ」
気付けば。
自分、まだ彼へ寄り掛かっていた。
「ご、ごめん!」
慌てて離れようとする。
だが。
ふらつく。
「わっ――」
その瞬間。
ペケが、当然みたいに支え直した。
「無理するな」
「……はい」
ヒオリの顔が少し赤くなる。
すると。
後ろでアイリスがニヤニヤしていた。
「殿下、自然すぎて怖いな」
「何がだ」
「そういうとこ」
ペケは本気で分かってない顔だった。
ヒオリが余計に恥ずかしくなる。
◇◇◇
その時だった。
「……あの」
小さな声。
振り返る。
海底少女だった。
もう身体は崩れていない。
蒼い髪。
透き通る瞳。
年齢はヒオリより少し下くらいだろうか。
だが。
何百年も孤独だった少女。
「……名前」
ヒオリが、そっと聞く。
「教えて?」
少女は少し目を丸くした。
まるで。
そんなことを聞かれると思っていなかったみたいに。
『……名前』
小さく呟く。
『忘れちゃった』
「そっか……」
ヒオリの胸が痛む。
すると。
少女が少し困ったように笑った。
『でも』
蒼い瞳が、静かにヒオリを見る。
『昔、“ルナ”って呼ばれてた気がする』
「ルナ……」
その瞬間。
少し離れた場所で、リツの表情が止まった。
「……っ」
「リツさん?」
だが。
彼はすぐに視線を逸らす。
「……いや」
でも。
その横顔は、少しだけ苦しそうだった。
◇◇◇
一方その頃――。
王立アルカディア学院。
早朝。
女子寮。
「……え?」
ミレナ・フォルティアは、窓の外を見て固まっていた。
空。
朝焼け。
そして。
一瞬だけ、“蒼い流星”が海側から空へ昇った。
「綺麗……」
思わず呟く。
その時。
何故か胸が少し熱くなった。
まるで。
誰かが“帰ってきた”みたいな感覚。
◇◇◇
深海都市。
崩壊が止まり始めていた。
《ネメア・アストラ》が消えたことで、都市術式が安定化している。
「……残るんだな、この場所」
セオドアが呆然と呟く。
「完全崩壊すると思ってた」
「母様が支えてたんです」
ルナが静かに言う。
「だから、最後に守ってくれた」
その声は。
どこか誇らしそうだった。
◇◇◇
その時。
深海最奥。
完全閉鎖された巨大石門から、“最後の光”が漏れた。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声が響く。
『……ありがとう』
その声は。
《レヴィア=ネメシス》だったのか。
それとも。
別の誰かだったのか。
誰にも分からない。
ただ。
その瞬間だけ。
海霊光が、まるで星みたいに優しく瞬いていた。




