第84話 生きたい理由
『――どうして、まだ生きたいの?』
深海全域へ、その声が響く。
《ネメア・アストラ》。
星海母神。
巨大な白い存在が、静かにヒオリ達を見下ろしていた。
海みたいな瞳。
泣きそうな笑顔。
まるで。
世界中の悲しみを抱えた母親みたいだった。
◇◇◇
誰も、すぐには答えられなかった。
深海の歌は甘い。
暖かい。
疲れた心へ、優しく触れてくる。
『もう苦しまなくていい』
『争わなくていい』
『全部、終わらせてあげる』
その言葉は。
歴代封星巫女達へ向けられたものでもあった。
孤独。
犠牲。
戦い。
全部を終わらせるための、優しさ。
「……っ」
ヒオリの胸が痛む。
分かってしまう。
この存在は、本気で“救おう”としている。
だから怖い。
◇◇◇
その時だった。
「飯が美味いから」
静寂。
全員が振り返る。
「……は?」
レートだった。
本人は普通に腕を組んでいる。
「いや、生きたい理由だろ?」
「お前空気読め」
アイリスが真顔で突っ込む。
だが。
レートは気にしなかった。
「だって実際そうだろ」
「美味い酒飲みたいし」
「綺麗な女居るし」
「仲間と馬鹿やってる時楽しいし」
軽い口調。
でも。
その目は真っ直ぐだった。
「苦しいことばっかじゃねぇよ」
静寂。
《ネメア・アストラ》が、少しだけ目を細める。
『……楽しい?』
「あるだろ普通に」
レートが肩を竦める。
「まぁ死にたくなる時もあるけどさ」
「それでも、生きてりゃたまに良い日あるし」
その言葉に。
ヒオリは少しだけ笑ってしまった。
◇◇◇
「俺は」
次に口を開いたのは、リツだった。
静かな声。
「歌いたいから、生きてる」
深海へ響く声。
「誰かが笑ってくれるの、好きなんだよ」
少し照れたように笑う。
「まぁ最近は騒がれすぎて困ってるけど」
「自慢か?」
「違ぇよ」
だが。
その空気は少しだけ柔らかかった。
すると。
海底少女が、小さく目を見開く。
『……変わらないんだ』
「え?」
『あなた、昔からそうだった』
リツが少し困った顔をする。
「だから知らねぇって、その昔の俺」
でも。
その声は少しだけ優しかった。
◇◇◇
その時。
《ネメア・アストラ》の瞳が、静かにペケへ向く。
『灰銀は?』
深海が静まる。
ペケは少しだけ考えた。
そして。
静かに口を開く。
「……最初は、生きる理由なんて無かった」
ヒオリが目を見開く。
ペケは海を見る。
「帝国は面倒だし」
「政治は腐ってるし」
「世界は勝手に壊れる」
淡々とした声。
だが。
その奥には、本物の虚無があった。
「だから、どうでもよかった」
静寂。
すると。
ペケの灰銀の瞳が、ゆっくりヒオリを見る。
「でも」
「今は違う」
その瞬間。
ヒオリの心臓が跳ねた。
「守りたいものが出来た」
真っ直ぐな声。
飾り気が無い。
だからこそ。
痛いほど本音だった。
静寂。
ヒオリの顔が、少し赤くなる。
後ろでアイリスが吹き出しそうになっていた。
「おい殿下」
「黙れ」
即答だった。
◇◇◇
そして。
最後に。
《ネメア・アストラ》の視線が、ヒオリへ向く。
『星霊は?』
深海が静まる。
ヒオリは少しだけ迷った。
怖くないわけじゃない。
苦しくないわけじゃない。
全部投げ出したくなる時もある。
でも。
ヒオリは、小さく笑った。
「まだ、見たい景色があるから」
蒼い瞳が真っ直ぐ前を見る。
「皆と、もっと笑いたいから」
その瞬間。
《ネメア・アストラ》の瞳が、僅かに揺れた。
まるで。
“忘れていたもの”を思い出しかけたみたいに。
そして。
深海最奥で。
閉じかけていた巨大石門が、再び静かに動き始める。
だが今度は。
“閉じる”方向へ。




