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第36話 出立の朝

 翌朝。


 王立アルカディア学院・北門前。


 空はまだ薄暗い。


 冷たい朝霧が石畳を覆い、遠征用大型魔導列車の蒸気音だけが静かに響いていた。


 “黒冠の奈落調査遠征隊”。


 その出発の日。


「うわぁ……」


 レートが空を見上げる。


「マジで行くんだな」


「今さら怖気付いたのですか?」


 セオドアが冷静に返す。


「いや普通に怖いだろSランクダンジョン!」


「否定はしません」


 アイリスが肩を竦めた。


「俺もできれば行きたくない」


「お前昨日までワクワクしてただろ」


「それとこれとは別」


 そんな軽口を叩いていても、全員少し緊張していた。


 黒冠の奈落。


 未踏破。


 国家災厄級。


 そこへ学生主体で向かうなど、本来あり得ない。


 だが。


 世界はもう、待ってくれなかった。


◇◇◇


 一方。


 北門近く。


 ヒオリは静かに空を見上げていた。


 胸元の痣が、微かに熱い。


 黒冠が近付くにつれて、星霊魔法の反応も強くなっている。


「……大丈夫か」


 隣から低い声。


 ペケだった。


 黒い遠征外套。


 灰銀剣。


 相変わらず隙がない。


「うん……多分」


「多分か」


「ぺけも顔怖いよ?」


「元からだ」


「自覚あるんだ……」


 ヒオリが少しだけ笑う。


 すると。


 ペケの瞳がほんの少し柔らかくなった。


「……その方がいい」


「え?」


「笑ってろ」


 また自然にそう言う。


 本当にずるい。


 その時だった。


「ヒオリ様」


 後ろから声。


 振り返ると、レオンハルトだった。


 白銀騎士装束。


 いつも通り整った姿。


 だが今日は少しだけ表情が硬い。


「レオンハルト様」


「少し、お話よろしいですか」


 ヒオリは小さく頷く。


 すると。


 ペケが静かに一歩引いた。


 だが灰銀の瞳は、ずっとこちらを見ている。


◇◇◇


 北門外・白樺並木。


 冷たい朝風が吹き抜ける。


 レオンハルトは数秒黙っていた。


 やがて。


「……本当は」


 低い声。


「行かせたくありませんでした」


 ヒオリの胸が少し痛む。


「危険すぎます」


「分かってる」


「黒冠は普通のダンジョンじゃない」


 白銀の瞳が揺れる。


「ですが、貴女は止まりませんよね」


 ヒオリは少しだけ困ったように笑った。


「……うん」


「そういう人ですから」


 レオンハルトは静かに目を伏せる。


 昔から知っている。


 この王女は、誰かのためなら危険へ飛び込んでしまう。


「だから」


 彼はゆっくり顔を上げた。


「どうか、必ず帰ってきてください」


 真っ直ぐな声だった。


 ヒオリは静かに頷く。


「約束する」


 その瞬間。


 レオンハルトはほんの少しだけ笑った。


「……あと」


「え?」


「ペケ殿下を、頼みます」


 ヒオリが目を見開く。


「えっ」


「殿下は強い」


「ですが」


 レオンハルトの瞳が少しだけ苦しそうに揺れた。


「強すぎる人ほど、自分を壊す」


 ヒオリの胸が締め付けられる。


 分かる。


 嫌になるほど。


「だから」


 彼は静かに笑う。


「貴女が隣にいてくれるなら、少し安心できます」


 その言葉に。


 ヒオリは何も返せなかった。


◇◇◇


 その頃。


 少し離れた場所。


「……見てられないな」


 アイリスがぼそっと呟く。


「分かる」


 レートが頷く。


「完全に三角関係じゃん」


「いや四角以上だろ」


「セレスティア様もいるしな……」


 すると。


 隣でアルトが静かに言った。


「ですが」


 全員が彼を見る。


「殿下が“ああいう顔”をするのは、ヒオリ様の前だけです」


 沈黙。


 そして。


 アイリスが吹き出した。


「重症だな第二皇子」


「本人自覚薄いのがまた厄介」


 その時。


 遠くから学院長の声が響く。


「遠征隊、搭乗開始!」


 空気が変わる。


 ついに始まる。


 黒冠の奈落遠征。


 星霊。


 灰銀。


 古代災厄。


 全てへ繋がる旅。


 ヒオリはゆっくり振り返る。


 その先。


 朝霧の中で待っていたペケが、静かに手を差し出した。


「行くぞ」


 低い声。


 けれど。


 不思議と安心する声。


 ヒオリは小さく息を吸って。


 そして。


 その手を、そっと取った。

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