第3話 灰銀の王子
ヴァルディア帝国第二皇子。
ペケ・ヴァルディア。
その名が学院広場に響いた瞬間、空気そのものが変わった。
ざわめきはある。
けれど誰も大声を出さない。
まるで無意識に息を潜めてしまうような圧が、彼にはあった。
ヒオリは視線を逸らせなかった。
夢で見た青年。
灰銀の瞳。
崩れゆく世界の中で、静かに立っていた人。
目の前のペケは、まだ血にも瓦礫にも塗れていない。
けれど。
どこか壊れそうな静けさだけは、夢の中と同じだった。
「ヒオリ様」
ミリアの小さな声で、ヒオリは我に返った。
「あ……ごめんなさい」
「お気を確かに。周囲が見ています」
言われて初めて気付く。
周囲の貴族子女たちが、ちらちらとヒオリを見ていた。
星詠み姫と灰銀の王子。
大陸でも名の知られた二人が、真正面から視線を交わしたのだ。
噂好きな貴族たちにとって、これ以上ない話題だった。
ヒオリは慌てて表情を整える。
その間にも、ペケはアルトやアイリスを連れて学院門へ向かっていた。
無駄のない歩き方。
周囲へ必要以上に視線を向けない態度。
近寄り難い。
けれど不思議と、人を惹きつける。
「……相変わらず怖ぇ空気だな」
レートがぼそりと呟いた。
「知っているの?」
「帝国留学組じゃ有名人だぞ。学院内じゃ知らない奴の方が少ない」
「そんなに?」
「成績首席。剣術首席。魔力制御も上位。政治論も教授泣かせ」
レートは肩を竦めた。
「おまけに実戦経験まである」
ヒオリは思わず眉を寄せた。
「実戦?」
「帝国北部の魔物討伐に同行してる。まだ学生なのにな」
王族が戦場へ出ること自体は珍しくない。
だが、学生のうちから最前線へ立つ者は少数だ。
しかも帝国北部は、Aランク魔物の出現報告もある危険地帯。
「……無茶をする人なのね」
「どうだろうな」
レートはペケの背を見ながら笑った。
「無茶してるってより、“死ぬ気で立ってる”って感じだ」
その言葉に、ヒオリの胸が妙にざわついた。
夢の中の姿が脳裏を過る。
崩れる世界。
血に濡れた手。
孤独な背中。
「ヒオリ様」
ミリアがそっと袖を引く。
「入学式のお時間です」
「ええ」
ヒオリは小さく頷いた。
けれど視線だけは、無意識にペケを追ってしまう。
灰銀の王子。
星が近づくなと告げた相手。
なのに。
なぜか、もっと知りたいと思ってしまう。
その感情を振り払うように、ヒオリは歩き出した。
◇◇◇
王立アルカディア学院中央大講堂。
数千人を収容できる巨大な空間は、朝の光を受けて黄金色に輝いていた。
高い天井には星座を模した魔導灯。
白い大理石の床には、各国の紋章が刻まれている。
中央最奥には、学院の象徴である巨大な星紋章。
その前に並ぶのは、今年度の在校生代表たち。
「すご……」
ヒオリの後方で、小柄な新入生が息を漏らしていた。
初めて見る者には圧倒されるだろう。
この場所には、大陸の未来そのものが集まっている。
「ヒオリ様、こちらです」
案内役の教師に導かれ、ヒオリは王族・貴族科三年席へ向かう。
周囲には各国の貴族子女。
中には視線を逸らす者もいれば、露骨に興味を向けてくる者もいる。
「星詠み姫……」
「本当に綺麗……」
「でも病弱って噂よね」
「未来視って本当なのかしら」
小さな囁きが耳に入る。
慣れている。
王女として生きる以上、注目は避けられない。
けれど今日は少しだけ疲れていた。
昨夜の未来視のせいだろう。
胸の奥に残る鈍い痛みが消えない。
その時。
不意に講堂入口側がざわめいた。
ヒオリが視線を向ける。
そこにいたのは、ペケだった。
帝国側の席へ向かう途中。
彼の後ろには、アルト、アイリス、セオドアら側近たちの姿もある。
「また見てるな」
隣から突然声がして、ヒオリは肩を跳ねさせた。
「えっ……!?」
いつの間にかレートが隣席へ来ていた。
にやにやしている。
「そんな分かりやすく見てたら誤解されるぞ、王女様」
「み、見てないわ」
「見てた」
「見てません」
「ミリア」
「見ていました」
即答だった。
「ミリアまで……」
ヒオリは小さく項垂れる。
ミリアは平然とした顔で続けた。
「ですが安心してください。現在周囲の視線は、ほぼ全てペケ殿下へ向いております」
「それ安心するところ?」
「少なくともヒオリ様の視線は目立っておりません」
「それはそれで複雑だな」
レートが笑う。
ヒオリは頬を押さえながら小さくため息を吐いた。
その間にも、ペケは静かに歩いていく。
周囲が自然と道を開けていた。
まるで誰も逆らえない空気。
けれど不思議と威圧的ではない。
近づき難いだけだ。
「怖い人、ではないのね」
思わず漏れた呟きに、レートが片眉を上げた。
「意外だな。大抵は“怖い”って言う」
「……なんとなく、違う気がして」
ヒオリは自分でも理由が分からなかった。
ただ、夢の中で見た彼の目が忘れられない。
あの人は、世界を壊す人ではなく。
世界が壊れるのを、一人で見ていた人だった。
そんな気がした。
その時。
ペケがふと立ち止まった。
帝国席へ向かう途中。
ほんの一瞬だけ、こちらを見る。
灰銀の瞳。
再び視線が交わる。
ヒオリの心臓が跳ねた。
けれど次の瞬間。
「殿下?」
アイリスが不思議そうに声をかけた。
ペケは静かに視線を逸らす。
「……何でもない」
低く短い声。
そのまま彼は席へ向かった。
だが。
「おい」
隣でレートが小さく呟く。
「今の、向こうも見てなかったか?」
「……え?」
「いや、気のせいか」
レートは腕を組みながら苦笑した。
「灰銀の王子が女を見るとか、想像つかねぇしな」
ヒオリの胸が、なぜか少しだけ苦しくなる。
星は近づくなと言った。
ならばきっと、この感情も間違いなのだろう。
けれど。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまった。
その頃。
帝国席へ着いたペケは、静かに椅子へ腰を下ろしていた。
隣ではアイリスが、じっと彼の横顔を見ている。
「……何だ」
「いや?」
「言いたいことがあるなら言え」
「別に?」
アイリスはにやりと笑った。
「珍しいなと思って」
「何がだ」
「お前が二回も同じ女を見るの」
ペケの動きが、ほんの僅かに止まる。
アルトが静かに目を閉じた。
セオドアは無言で眼鏡を押し上げる。
カイルは面白そうに笑っていた。
そして。
「……気のせいだ」
ペケは淡々と言った。
その答えに、アイリスは吹き出す。
「はいはい」
「何だ」
「いや、“気のせい”って言う時のお前、だいたい本当だから」
ペケは答えない。
ただ、静かに講堂中央を見つめていた。
その視線の先には。
蒼い瞳を持つ、リュミエール王国第一王女の姿があった。




