【24日 503年04月】北魏圧迫! 対する梁は
【503年04月】
資治通鑑原文2972文字(153/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
8/3-蕭衍-10/14
8/23-蕭統-9/23
・準メインキャスト
8/18-元恪-9/5
【あらまし】
北魏軍、梁の武帝の「簒奪」を名目としての大攻勢を展開。主力は淮水上流の義陽および淮水中流の鍾離に集中します。対する梁では国内統治の手立てが進む中、韋叡や曹景宗と言った、この次の大戦で大活躍する名将の名前が見えてきています。
【できごと】
北魏、南侵を再び開始。拓跋澄改め元澄が総指揮官となり、その下に蕭宝寅がつきます。ここで蕭宝寅は亡き祖国のために斎戒し、慟哭を示します。梁を悪役として仕立てる気満々です。ひとたび進軍を開始した北魏軍の勢いは凄まじく、各地で城塞を次々に陥落させていきます。しかしそうした中でを都督東揚等三州諸軍事・鎮東将軍・揚州刺史・斉王とし、一万の兵を与えて東城に阜陵を守る馮道根が城を堅守、さらに打って出ればわずかな手勢にて北魏軍を大破するという活躍を示します。また元澄の率いる軍こそ快進撃でしたが、蕭宝寅は作戦に失敗し、寿陽へ後退。ちなみに寿陽とは前秦の苻堅が大敗した淝水のほど近くです。つまりこの頃の梁は、淝水当時の東晋よりも遙かに南に押し込まれていたわけです。
一方、ここで北に目を転じると、六鎮を始めとした各地の管理が行き届かず、後背と飢饉にあえぐようになった、とされます。つまり平城から洛陽に都が移ることにより「北魏にとって柔然の脅威が相対的に減退した」訳です。本来の脅威度は何も変わりませんけれど。これにより六鎮の管理コストが大きく削減された。では、となるわけですね。また高氏の専横はいよいよ強力なものとなり、宣武帝周辺の側近らを次々に陥れています。
梁では国内統治のための制度作りに邁進しています。蔡法度が法制を整え、徐勉および周捨がその法制を実際に運用します。この両名は梁初期の名宰相としてその名が知られているそうです。一方竟陵八友として共にあった范雲はこの年に死亡、沈約は「軽薄ものだ」として中枢から弾かれています。結局沈約は立場を取り返すことなく、母の死を理由に官を辞しました。武帝のここまでにあれこれ書いてはきましたが、国内統治ファーストで動いていたのは間違いがないようですね。もっとも蜀で動乱が起こったことの鎮圧に駆り出されたりと、なかなか腰を据えて統治に集中することは叶いません。
そして何よりも、迫り来る北魏。この段階では基本的に押される一方でこそありましたが、ここで韋叡と共にその武勇が知られる名将、曹景宗の名前も現れます。このときの曹景宗は義陽、大別山脈より発した淮水が平野部に流れ出たあたりの地の攻撃に対する救援として出ていました。こうしたところからみても北魏の攻撃が面での攻撃となっているのがうかがわれます。北魏も、ずいぶんえげつない作戦で武帝の即位を祝福するものです。




