【23日 502年04月】簒奪の余波! 江南揺らぐ
【502年04月】
資治通鑑原文4236文字(89/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
8/3-蕭衍-10/14
蕭統-9/23
・準メインキャスト
8/18-元恪-9/5
【あらまし】
梁武帝、即位。武帝は和帝とその周辺こそ殺害しますが、そこ以外は原則として寛和政策を取りました。もちろん誰もがいきなり武帝に従うわけでもありません。し、北魏も当然付け込もうとしてくるわけです。
【できごと】
北魏から見て、斉梁革命とはなんでしょうか。端的に言えば侵略の口実、そのものです。梁の武帝による粛清劇から逃れた蕭宝寅は洛陽の宮廷前で土下座し、梁への侵攻を願い出ました。ところでめちゃくちゃ面白い話をここに投げ込んでおくと、このタイミングまでに宋よりの亡命皇族であった劉昶は死亡済みであり、またその子どもたちもだいたい誅殺されています。つまり妄想をたくましくすれば、北魏にとってもはや宋の尊重は「南朝を攻め滅ぼす大義名分」ではなくなったようです。「南斉を滅ぼした誰か」を攻め滅ぼすのが大義に適う、というわけですね。このため北魏における南征の機運が、蕭宝寅を旗頭として高まりました。
では、ここからは北魏に言うところの「不義なる簒奪者」たる梁について見ていきましょう。ここで面白いのは武帝の兄たる蕭懿の扱いです。その封地が、長沙。これは三国呉の孫権が、兄たる孫策を追封した際に提示した地と同じです。そして諡が、宣武。この諡を得ていた過去の人物と言えば、当然このひとが出てきます。桓温。更に孫策の諡号を見れば、桓。その具体的な意味合いについては検討の余地も大きいですが、武帝政権が孫策孫権兄弟、そして桓温桓沖兄弟を強く意識していた、というところまでは言い切ることが叶いそうです。もちろんこれが「どのような意識であったのか」まで言い出してしまえば勇み足ですが。
武帝は即位直後、和帝を殺害しています。宋、南斉からの伝統に則った形です。ただしここで武帝は「前朝皇族を殺しすぎる必要はない」と、その誅殺範囲を限定しました。これは武帝の美点として語られることも多いですが、むしろ「それだけ南斉討伐が歓迎されていた」と見るべきなのでしょう。つまり武帝の即位は南斉に好き勝手させるよりは遥かにマシ、と見なされていたのだろうと思います。もちろん武帝の即位に対して反旗を翻すものも多かったそうですが、割とあっさり鎮圧されています。ここまで武帝の正当性にあれこれツッコミを入れてはきましたが、「統治を整えた」のは間違いのないことなのでしょう。こうしたことから得た支持に対するある程度の確信が、粛清規模を限定させることに至ったのではないか、と感じています。
また武帝は、ここで嫡子の蕭統を太子に据えています。この人物こそが「昭明太子」。すなわち、魏晋南北朝期における文学の集大成たる『文選』の選者なのです。




