【19日 498年07月】孝文帝明帝崩ず! 仲いいな!?
【498年07月】
資治通鑑原文4142文字(93/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/17-拓跋宏▲
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/30-蕭鸞▲
8/18-元恪-9/5
【あらまし】
孝文帝と明帝、ダブル崩御です。いや南北両朝仲良すぎじゃない!?
【できごと】
またですか!? と思わず叫んでしまいました。孝文帝と明帝、同年崩御。ここまでタイミングがかぶってくると、いい加減なんか口裏をそろえていたんじゃないのか、と疑いたくもなってきます。もっともそこを揃える意味もないわけですけれど。ここでふと思い出すのは蒼天航路の曹操の死の書き方ですね。あの漫画は「曹操に見られていることの喪失」が他の人物のプレッシャーからの解放、そして死亡と描いていました。もちろんこれはフィクションの話ですが、多少はそういった要素もあったのかもしれません。
先に崩じたのは明帝です。すでにここまでで病身からかなりの猜疑に駆られた粛清を繰り返してきていましたが、ついに力尽きてしまいました。あとを継いだのは太子の蕭宝巻。いわゆる、廃帝東昏公です。なおこれは「東の昏君」という意味でこそありますが、実在する地名でもあります。ただし、東昏と呼ばれた地は黄河南岸域、つまりこの当時北魏勢力圏真っ只中です。クソ君主とアピールしたいからこその貶号というわけですが、これ、東昏の民にしてみれば心底いい迷惑ですね。なお東昏公のふるまいはだいたい宋の前後廃帝と同じ感じなので「まあそういうアレ」で片付けてしまうのが良さそうです。
明帝の崩御を受けた「というていで」孝文帝は南征を引き上げました。喪中を攻めるのは礼に即していない、とのことですが、そもそも戦争ふっかけてる時点でどこに礼があるんだよって印象です。ただ、これには別の変数もありました。南征軍を率いる孝文帝が、陣中で病を得ていたのです。つまり「うまくいかないでいた侵略戦争を中断する口実ができた」というわけです。孝文帝は洛陽に帰還後、崩御しました。ちなみに孝文帝の皇后は馮氏、つまり馮太后の親族だったのですが、孝文帝崩御の直前に廃され、更には馮氏一門の実権も急速に削減されています。このあたり、なんだかんだで子貴母死のメンタリティが継承されている印象もあります。
ところで、司馬光さんはここで孝文帝の治世についてまとめます。その治世中にちょくちょく批判こそ加えていたのですが、ここでは魏書に見られるような名君ぶりのみをピックアップするにとどまっています。相変わらずこのひとは読み手が「何をまともに読まないか」についての実践知がヤバいです。太子の元恪が即位しました、宣武帝です。いや、ここまでさんざん文を諡に据えてきた北魏がここで武を用いるのとか、かなり皮肉が効いていて面白いです。「文成以来文治を糊塗しなければならなかったところを、糊塗する必要がなくなった」みたいな印象です。




