【18日 497年07月】孝文親征! 南北グズグズ
【497年07月】
資治通鑑原文6354文字(33/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/30-蕭鸞-8/19
元恪-9/5
【あらまし】
孝文帝、本格的に南侵開始。しかしこの攻撃は全然うまくいかず、しかも洛陽では側近たちが対立を起こし、あまつさえ李沖を失ってしまいます。ただしこうした侵攻を受け南斉では前線に立つ蕭衍が大損害を出しています。さらに後方では南斉建立の立役者とも言っていい王敬則が明帝の猜疑を受け、殺されています。北と南、一気に大混乱です。
【できごと】
このパターンをよく見かけますね。国主が大々的な遠征を実施するに際し、太子を制定するのです。もちろん孝文帝はもともと太子を設定こそしていましたが、ここで改めて元恪を皇太子としました。そして元恪の生母である高氏が謎の急死を遂げました。不幸な事故ですね、痛ましいです。
そして、南征開始。ここで旧仇池で謀反が起こります。すぐさま鎮圧こそされていますが、ここで軍を割かれているのは北魏にとっても痛手でしょう。ひそかに南斉の工作があったと妄想するのは、さすがにうがちすぎでしょうか。ともあれ孝文帝自身は、これまでさんざんに攻撃を仕掛けてきていた鍾離ではなく、洛陽から許昌を経て荊州にいたる入口の地、宛を攻撃。ここで降伏勧告が蹴られると、さらに孝文帝自身が伏兵の強襲を受けるなど、きわどい戦局も招いてしまいます。いちおう全般的に北魏軍優勢で攻撃は進行しますが、箇所箇所では南斉による撃退も起き、まったくもって順調とは言えません。こうした中、孝文帝の後背を守っていたはずの洛陽では李彪と李沖、すなわち孝文帝を支える大黒柱ともいえる二名が激しく対立。李彪は罷免され、政争に勝利したはずの李沖もまた死亡します。陣中の孝文帝はその死に大いに悲嘆にくれたそうです。
南斉は基本的に北魏に圧迫され続けていました。その中で蕭衍は何とか戦陣を構築しようとしますが叶わず、襄陽へ撤退します。ここで撤退の連携が不足し、多量の損害を出してしまいます。さらに明帝は前線を諸将らに押し付け、自身は引き続き中央で粛清に明け暮れていました。こうした中、こちらでもお久しぶりの人物の名が挙がりました。王敬則。宋斉革命に際して後廃帝殺害や順帝連行といった際立った功績を上げていた将です。すでに結構な歳であるはずですが、明帝はそんな王敬則を追い詰め、ついに乱を引き起こさせます。この乱は規模こそ十万クラスに膨れ上がったそうですがまともな統率も取れておらず、すぐさま鎮圧され、王敬則も戦死しました。なお、そんな王敬則の娘婿であったのが竟陵八友の一人、謝朓でした。謝朓はむしろ明帝に王敬則の動向を密告していたため連座からは逃れたのですが、妻からは当然恨まれることになりました。
しかし、北も南も一気にぐずぐずになりすぎじゃないですかね?




