【17日 496年08月】断肉親! 孝文の焦燥?
【496年08月】
資治通鑑原文3660文字(112/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/30-蕭鸞-8/19
【あらまし】
洛陽遷都を始めとした漢化政策に、太子や大古参の家系の臣下らが行動で反対を表明すると、孝文帝はそうした動きを苛烈に潰します。その上で改めて南斉制圧のための軍を起こしており、この人、もしかしたら自分の寿命がどこまでかを悟って焦っていたのかもしれません。
【できごと】
漢化政策によるゆがみは相当なものでした。まず孝文帝太子、元恂が洛陽より脱出、平城に戻ろうとします。かねてより元恂の言動を厳しく諫めていた人物を刺殺、脱出を図りますが、失敗。孝文帝は元恂をとらえ「国家のためには肉親をも断つ」と宣言。元恂を皇太子から廃して庶人とし、最終的には殺しました。
話は太子にとどまりません。平城では穆泰および陸睿らが乱をもくろみます。この両名は道武帝時代から北魏に代々仕えていた一門の人物で、先日紹介した旧鮮卑八姓にも数えられるほどの名門。ただし孝文帝はこの動きを察知するとまたいとこの元澄を即派遣し、その乱がまともに形にならないうちに制圧します。その反乱勢力がさほどでもなかったというのはあるいは「平城が都であること」そのものはそこまで重要ではなかったのかもしれません。ただし、後々に響いてくるのは「平城に都があることの意義」であったりしますが、まぁそこまで見通せというのもなかなかに酷なことなのでしょう。
それにしても、ただの史料の偏りなのかもしれませんが、これら孝文帝の動きには、どうにも焦りが見え隠れする気がしてなりません。南征について「洛陽体制を整えてから改めて開始すべきです」という李沖の反対を押し切って大々的な準備をしており、自分の命が続く内に諸々をなんとかしておきたい、と言う意志を感じずにおれません。崩御まであとわずか、しかしこの時点でまだ30になるかどうか。その生涯は、もしかしたら明元帝と比較できるといいのかもしれません。
北がうごうご「攻めるぞ、攻めるぞ」とまた言い出してきている南斉ですが、ここで明帝は王晏を誅殺します。王晏は明帝の即位に際し重要な働きもしていたそうなのですが、一方で武帝存命の折には明帝の学識不足を理由に昇進を却下したこと、この当時では自分こそが権力者であるとばかりに好き勝手に人事権を行使していたこと、などから明帝より猜疑されるに至ったのです。ところでこれまで見てきた権臣たちは、位人臣を極めたあたりの召喚に暗殺を疑うのが常でしたが、王晏についてはその疑念が書かれず、召喚されて殺された、と書かれます。さすがに警戒心なさ過ぎじゃない? これが司馬光さんの王晏ヘイトか、あるいは南斉書を編んだ蕭子顕に由来するのかはわかりませんが、まあここは記事採用者の評価、でよいのでしょう。なにせ、ぼくらの司馬光さんですもの、ねっ!




