【16日 495年08月】元氏改姓! 太子は不満
【495年08月】
資治通鑑原文3683文字(108/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/17-元宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/30-蕭鸞-8/19
【あらまし】
孝文帝が鮮卑姓を捨てて漢姓、つまり元氏を名乗り始めたのがこの年です、が、どうも様子を見ていると本姓たる鮮卑姓と通用姓たる漢姓のうち漢姓で公的記録を統一させるようになった、が実態に近そうです。
【できごと】
いやあ、どうしましょう。孝文帝の漢化政策、もう完全に変な目でしか見れなくなっています。洛陽移転後様々なものを、言わば中華式に改める、その最大のものがこの年の北魏を襲います。鮮卑姓の単姓化、即ち拓跋姓をついにこの年、元姓に改めます。ただしここについてはやや留保が必要で、特に紹介を受けている穆・陸・賀・劉・樓・于・嵇・尉と言った姓は道武帝の時代には既に改称済みであった可能性があり、また魏書では道武帝の時代の宗族の姓を元と書いたり、また太武帝の時代に禿髪氏を源氏に改めさせたりしています。ともなればここでガラッと変わったという理解ではなく、漸次的に胡姓漢姓が併用されつつあったのを改めて漢姓として統一した、と見るのが良いのでしょう。
そしてそれ以上に重要なのが旧鮮卑姓と漢姓とを交えて家格を制定し、そして同じ家格間での婚姻を奨励したことです。こうした措置は家格の固定化を推し進める、という結果が生じます。なおこのとき重視された漢人家門は范陽盧氏・清河崔氏・滎陽鄭氏・太原王氏ということで、これがなにかと言えば、ほぼのきなみ国史の獄のときに掣肘を受けていた一門です。にもかかわらず最高家門に君臨するのですから、本当に名族は不気味としか言いようがありません。なおこうした家格制定に強固に反対したのが李沖でした。李沖は西涼王族の子孫、いわゆる隴西李氏です。このひとはこのひとでほぼ最高家門グレードに位置づけられこそしていましたが、それでもなお「任官は家格ではなく才覚で決めるべきだ」という意見を強く主張しています。しかし顧みられませんでした。と言うわけで当然司馬光さんもまたここに噛みついています。それはそう。なにせ司馬光さんの時代は科挙によって賢才が抜擢される「と言う立て付けの」国に仕えていますものね。
なお、こうして進められる孝文帝の漢化政策が気に食わないひとがいました。太子、拓跋恂です。平城に比べて暑い洛陽を好まず、また漢服も身につけず、胡服着用を貫き通したのです。またこの年には陰平の楊炅が死亡、子の楊崇祖に代が移っています。なんか旧仇池、存在感が一気に薄くなりましたね。




