【14日 493年10月】またも海陵! 蕭鸞弑逆
【493年10月】
資治通鑑原文5700文字(49/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
孝文帝が「自分の代ではコケなかった苻堅」の匂いを強烈に漂わせます。南斉では蕭鸞が鬱林王を弑殺、海陵王を立てました。また海陵王か!
【できごと】
北魏の洛陽遷都は人々にとってもよく意味の分からないものでありましたが、ここで拓跋澄、孝文帝のまたいとこにあたる人物が人々に洛陽遷都の意義を説いたため、ようやく人々も納得をした、とされています。しかも移動および遷都をするだけしてから洛陽を都にふさわしい都市へと造営し始める、という突貫ぶり。臣下らはいったん平城に戻って待機していてほしいと望みますが、孝文帝は鄴に移動。ここまでくると、孝文帝にはさらにもう一つの変数を見なければならなさそうです。それは平城が大っ嫌いであった、ということ。あわせて孝文帝は漢族風の習俗や儀礼を次々と取り入れ、さらには王粛という人物と南斉攻略のための計画を練りもしています。なんというかこれ、もう「失敗しなかった苻堅」のような匂いが急速に出てきましたね。
さらにここで注目に値するのが宋王劉昶の扱いです。いやまだ生きてたんだって感じですが。この宋皇族の数少ない生き残りを、孝文帝は、なんと彭城に配しました。彭城とは劉氏の本貫。おそらくこの赴任で劉氏代々の宗廟を修復させもしたことでしょう。つまりこの措置は、口先で南斉との関係をどう言い繕ってみたとしても、「本来江南を統べるべきは劉氏に決まっているだろう」というメッセージでしかありません。ただしそれは、あくまで拓跋氏の統治の下で、というわけです。もっともその劉昶は現地の民の慰撫に失敗したそうですが。
なかなか今後のやばさをにおわせてくれる北魏の動きを受け、武帝という重大な柱を失った南斉はどうだったでしょうか。先に言っておきましょう、この国の短命、8割が蕭鸞のせいです。高帝の甥であったにもかかわらず武帝らと同じか、それ以上に重んじられ、更に前年には蕭長懋との折り合いが最悪であったにもかかわらず、その息子たる鬱林王の補政とされた。この時点で蕭鸞が皇統を重んじるはずがありません。鬱林王は暗愚であったと書かれますが、そんなものはいくらでも蕭鸞がでっち上げられるでしょう、信じるに足りません。
というわけで蕭鸞は蕭衍をはじめとした有力宗族らを陣営に引き入れると、鬱林王を弑逆。その弟である「新安王の」蕭昭文を立てます。廃帝海陵王です。また海陵王か! 調べてみると金の海陵王も岐王として簒奪、死後に海陵王に貶められています。これは宋の海陵王がひとつのきっかけとなった貶号である、と言えそうですね。




