【11日 490年11月】道武を太祖に! 孝文の史観
【490年11月】
資治通鑑原文3099文字(148/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
この年も引き続き北魏と南斉の内政対置が描かれ続けます。そうした中孝文帝が自国の建立を拓跋珪に求め、それ以前の拓跋の歴史をひとつ隔離したのが伺われます。
【できごと】
北魏では、引き続き孝文帝が馮太后への服喪の思いを前面に出しつつも、礼制や祭祀、法制なども整えます。こうした中に南斉よりの使者がやってきたのですが、彼らは馮太后の喪に服そうとはせず、あくまで自身の国の礼制に則った服装をしていました。このことに対して無礼ではないか、いやそうではない、といった激論が交わされたのですが、最終的に南斉からの使者は北魏にて支給された喪服を着用することを承諾しています。この議論に登場してくるのが、李沖という人物でした。太武帝時代にその統治の手腕を大いに讃えられた李宝の息子で、李沖自身もまた優れた政治の才能を発揮、孝文帝より手厚い信頼を勝ち取っています。例えば北魏における礼制や刑罰の基準については李沖が大いに尽力し、皇族や大臣らもまたその出来栄えに感嘆せずにおれなかった、とされています。
また孝文帝は、ここで礼制的にかなり重要な改革をなしています。この年まで、実は北魏を建てた道武帝は烈祖宣武帝とされていました。これを太祖道武帝と改めたのです。太祖とはおおよそ国を創建した皇帝の意ですし、退けられた諡号の宣は伝統的に再興の意味合いを帯びます。つまり孝文帝は、北魏の天命を拓跋氏の系譜に求めず「拓跋珪」の勇躍、あるいはその漢人官僚らの大々的登用に求めた、となります。これはもう、孝文帝にとり自身のオリジンを拓跋に求めるのが厳しくなってきた、と評して構わないのでしょう。
対する南斉では、流通における貨幣の不足が甚だしくなっていた、と論じられます。これまでも貨幣不足は南朝にとり課題として取り沙汰されていましたが、ここにきてその問題がさらに加速していたようです。ここで武帝は市井から銅および鋳造のための木炭の買い集めを命じるのですが、この下命は結局徹底されなかったとのことで、南斉が経済不安を抱えながらもそれを解決できるだけの手を打てなかった、と語っています。また王晏が病を得たため引退を言い出したところ、武帝はいとこである蕭鸞をその後任にしよう、と考えました。すると王晏は蕭鸞の政務能力そのものは評価しつつも、学識に不安があるために後任に据えるのは難しい、と回答しています。これが当時の職務に経典知識が本当に求められたのか、それとも、何せ言い出しているのが王晏ですから、ただのイチャモンなのかよくわかりません。もちろん経典知識は必須であるとも思うんですが、なにせ発言者が、ねえ。




