【10日 489年12月】馮太后崩御! 孝文痛哭
【489年12月】
資治通鑑原文4101文字(95/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/5-馮太后▲
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
馮太后、崩御。孝文帝がその死に対して並々ならぬ慟哭を示したとその孝孫ぶりを活写した司馬光さんは、同じ筆で武帝の微妙ぶりをこれでもかと描きます。
【できごと】
巨星、堕ちます。孝文帝を立て、北魏の最盛期を導いた馮太后が、ついに崩御。この事態を受けた孝文帝の悲嘆は凄まじいものであり、皇帝による至親への葬礼どころか、孝子としての葬礼をも遥かに上回った慟哭ぶりを示し、臣下らに「それは行き過ぎです、早いところお立ち直りとなり、政務にお戻りください」と言われています。孝文帝は「お前たちは朕からこの悲しみの情を奪おうというのか!」と、かなりの大激論を交わしています。いや、その長さいる?
そして、ここで面白いのは司馬光さんです、馮太后崩御の直前まで孝文帝をずっと「魏主」、つまり夷狄の王呼ばわりであったのに、この議論の間だけ孝文帝を「帝」と呼び、議論が収束するとしれっと呼び名を「魏主」に戻しています。ほんとこのひと毀誉褒貶隠す気ねーなしかし。一方で馮太后は孝文帝のその聡明さを嫌っており、廃位を考えたり虐待を加えたりもしていた、と紹介します。相変わらず情報の配置のさせ方に「どのように情報提供をすれば印象を強化できるのか」についての計算が周到であり、ほんとこのひとの記述ってわかりやすくてまともに信じちゃいけない、の典型だな、と感心尽きせません。
対する南斉では、武帝の微妙さをアピールするエピソードがきます。寵愛していた寒人層出身の人物が「そろそろわたしも名族の仲間入りできますよね!?」と言い出したので名族の参列する宴席に赴かせたら、名族らから「参列は構わないですけど、同じ場所にいないでくれません?」と追い払われたのです。彼が武帝に泣きついたら、武帝もまた「朕では彼らの認識を改めきれん」と慰めています。つまりそれだけ武帝が名族らを統御しきれていなかった、と論じている――のですが、実はこのエピソードには前段があります。宋の文帝も同じようなシチュエーションに出くわし、やはり名族らに認めてもらえなかった人物を慰めているのです。宋文帝については載せずに武帝のエピソードだけ載せてくるあたりに、司馬光さんの思想のほどが伺えそうです。
またここで「もうこれが始まったか」的感慨感を抱かせられる出来事があります。武帝の弟、蕭子響の謀反と、その鎮圧です。なんというか、もうゴールが近いの南斉!? って気分になりました。




