【8日 488年01月】北魏隆盛! 斉は苦しい
【488年01月】
資治通鑑原文1887文字(243/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
大正義孝文帝の統治と、対する南斉は軍務やら貧乏やらにあえいでいた、という対称的な様子が強調されています。こう言うのってそのまま信じるのめっちゃこわいんですよね、実際のところはどうだったのでしょうか。
【できごと】
この年の孝文帝は、いかにすれば民意を鎮められるか、についての諮問をなしています。ここで李彪による奏上が長々と載ります。本当に長い。それだけ司馬光さんにとっては重要な内容である、という認識なのでしょう。その内容は
・豪族の度を超した贅沢を引き締めさせよ。
・太子に重厚な教育を施すようにせよ。
・いざというときのために倉庫の蓄えを厚くせよ。
・全国から有才の人物を中央に集め、職務を割り振れ。
・親と子、それぞれがそれぞれの過ちをあがなうようにさせよ。
・服喪における質素な振る舞いを徹底せよ。
と言うものです。言ってみれば伝統的な官僚、家族観が、やはりお国の統治、人倫の涵養に当たって重要である、という話となってくるのでしょう。この辺りの内容にはおそらく趙宋代の規範意識も紛れ込んできているでしょうから、魏書に当たり直しておかないと変な先走り理解をしてしまいそうで恐ろしいです。ともあれ孝文帝がこうした提議を受け入れたため、この頃の北魏は栄えていた、と書かれています。そう、これが何かというと、対する南斉がもろもろひどかった、に対する対置と言っていいのでしょう。
桓天生は引き続き南斉を患わせ続けます。和親が結ばれたという話でこそありつつも結局北魏としては少しでも南斉を弱らせたいわけですし、これはまた南斉としてもお互い様なところがあるのでしょう。ここでは南斉がさも被害者かのごとく書かれていますが、決してそんなことはないのだろうな、と感じます。こうした事態を受けて武帝は琅邪城にて軍事演習を観覧した、と書かれますが、この書き方はきっとわざとなのでしょうね。当時琅邪そのものは北魏の手に落ちています。ここで言う琅邪城とは建康の北東に置かれていたと言う琅邪籍の者のために設けられていた地域を言うのでしょう。
あわせて、国庫にお金があまりなかったようで、武帝は金策に走っています。ここで杜元懿と言う人物が「私に任せてくだされば国庫を増やしてみせますよ!」と言い出すと、顧憲之と言う人物が「杜元懿のやり口は、要は苛斂誅求な取り立てです。はっきり言って民を損ねます」と言い切り、中断させました。この話はやり取りの内容を下手に拾うよりも、南斉の首のまわらなさを見ておいたほうが良さそうです。そう、江南ではなく。




