【7日 487年02月】北魏飢饉! 応じる孝文
【487年02月】
資治通鑑原文1227文字(291/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
南斉の記事は全くなく、ひたすらに北魏、孝文帝の統治について書かれます。「さすがにひいきの引き倒ししすぎじゃね?」感はありますが、まぁ。
【できごと】
この年には大きな動きがありません。その分を大きく北魏の内政に充てています。先に外征まわりを書いておきましょう。桓天生を利用した南斉攻撃は失敗。またここしばらくまるで名前の出てこなかった高車がいきなり現れると王号を名乗ったり、柔然が攻撃を仕掛けてきたりもしています。ここで柔然による攻撃の理由を資治通鑑は「可汗の郁久閭豆崙が暴虐であった」ことに求めますが、同時に、この当時大旱魃が発生していたことを無視してはならないのでしょう。
この大旱魃については、この年の北魏の内政措置を大々的に書くに至るトリガーともなっています。この事態を受けて孝文帝は臣下らより広く意見を募りました。この中で名地方官として先日に紹介されていた韓麒麟が「ここまでの平和によって蓄えた富をいまこそ解放すべきときです」と訴え、合わせて金持ちの贅沢を取り締まるべき、と主張しました。これが採用され、北魏宮廷から多くの財貨が国内に供出されています。もちろん「聖王アピール」としてみるべき要素も大きいでしょうから「宝物庫にある宝物のうち八、九割が民のために放出された」などという記述に対しては生ぬるい目でうなずいておくべきだとも思いますけれど。あとは宮中の人材を解放もしています。
またこの年、改めて北魏で国史編纂事業が立ち上げられました。このタイミングですから馮太后・孝文帝ラインの正当性を完璧に整える意向があったのだろう、と想定されます。つまり乙渾誅殺〜献文上皇夭折あたりの後ろ暗い部分の糊塗、ですね。なおここでのスタッフには高允の族孫であった高祐であるとか、李彪、彼の子供がのちに十六国春秋を編む崔鴻の友人であったりしています。高允も過去には歴史に携わっていましたし、歴史編纂という特殊スキルが特定の家門に伝承されているのを感じます。
また、この高祐は孝文帝に「地方官の任命こそが国の統治に当たって最重要課題である、このときに求められるのは官暦ではなくただ才覚である」と提唱。まるで漢中興の名君、宣帝のようなことを言っています。もっともであると考えた孝文帝によって任地に派遣されてみれば、実際にそこで教育に重点を置いた統治を為し遂げた、と書かれます。この一例をもって北魏の内政充実と言い切るのはなかなかチェリーピッキングな気もしますが、ともあれ孝文帝が統治に意を砕いた、のは間違いがなさそうです。それにしてもここに来て一気に馮太后の存在感が薄くなっています。本当に退いたのか、なんらかのレトリックなのかは気になるところです。




