【5日 485年03月】均田三長! 整う北魏
【485年03月】
資治通鑑原文2147文字(213/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
8/3-蕭衍-10/14
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
この年の北魏では均田制および三長制という、歴史の教科書に載るクラスの税制改革が実施されます。一方の南斉では佞臣の跋扈による戸籍の混乱から大規模反乱が発生。今日も司馬光さんの対比の腕が光ります。
【できごと】
北魏では孝文帝の弟たちがそれぞれ王に封じられます。彼らは皆その後の北魏にて存在感を示すのですが、その中でも特に把握しておけると美味しい人物を紹介しておきましょう。北海王拓跋詳、のちには元詳となります。 また前年の俸禄制にもおそらく連動しているのでしょう、各地の豪族が抱え込んでいた民を豪族らから解放、その民にそれぞれ田を与え、耕作及び納税の義務を課します。いわゆる均田制です。更には課税システムを簡略化させる、三長制も施行されます。こうした部分には農務の促進があったのが間違いありません。ともなれば、平城という守りに強い城の利便が悪くなってくるのはやむを得ない話とも言えそうです。またこの年孝文帝が加冠します。まだまだ馮太后主導の政策も多かったでしょうけれど、孝文帝の存在感も日増しに高まっていそうです。
この年には西方での動乱が頻発し、そうした中で仇池の楊後起が死亡、弟の楊集始が立ちます。西方諸国や吐谷渾情勢が安定しない中、仇池の慰撫は西方運営にあたって重要課題となっていたのであろうことが伺われます。また柔然では郁久閭予成が死亡。子の郁久閭豆侖が立っています。
南斉では高帝以来の名臣、王儉について大きく扱われます。その卓越した学識、儒者としての優れた振る舞い、諸儀礼への通暁、際立った判断決裁能力と、さもこの頃の南斉にて人物と呼べるのは王儉一人とでも言わんばかりです。その上でその風流ぶりもまた一線級であったため人々から憧れられていた、と言われますが、そんな王儉自身はしれっと「世で風流と称することが叶うのは謝安様のみである」と述べています。逆にいえば自分自身はその次くらいについているぞ、と言うことですね。
一方、武帝の周りは引き続き佞臣が跋扈していました。この跋扈により戸籍の混乱が生じ、そこから会稽近くの地、富陽にて大規模な乱が勃発。南斉の皇族にあたる地方官を殺害するに至ります。この乱はすぐさま鎮圧されるのですが、一方で鎮圧にあたった軍がそのまま略奪を働き、武帝よりの処罰を受けています。晋末の孫恩の乱の時もそうでしたが、政府軍が反乱軍以上に民にとっての脅威となるのは、どうにも不可避のことだったのかもしれません。このあたり、どうすれば整えられたんでしょうね。




