【2日 482年05月】南北講和! 一時の平衡
【482年05月】
資治通鑑原文1085文字(309/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
南北ともにここまでの戦闘モードが落ち着きを示し、講和モードに突入しました。もちろん恒久の平和ではありません。この先、どのような展開が待ち受けるのでしょうか。
【できごと】
前年に紹介しきれなかったことがあります。褚淵が、その「不忠者」ぶりを各方面からフルボッコにされていた、というものです。そこには宋の元勲たる劉穆之の子孫がいたり、トータルでは宋の武の象徴として君臨していたと言っていい沈慶之の息子がいたりで、どれだけ褚淵が南斉で肩身の狭い思いをしていたかを、これでもかと書き綴ります。そんな褚淵が、ついに死亡。嫡子であった褚賁は服喪にかこつけてそのまま引退した、と書かれますが、とはいえその弟である褚蓁が爵位を継承したとありますから、褚氏以外の人士たちから見れば「チッ、うっせーな。反省してま〜す」にしか見えなかったことでしょう。
あと宋の明帝~後廃帝期で乱を起こし、鎮圧された宗族たちのうちで、おそらく最も声望高かったであろう劉景素の名誉がここで回復させられました。これは言い換えれば「それだけ宋の再決起が難しくなった」ということなのでしょう。つまり宋の諸皇帝よりもさらに南斉皇帝の権威が低かったため「安心」できるところまで宋皇族を殺し尽くし、この年ようやくその作業を終えた、ということです。ここには残虐さよりも、下がどれだけ皇帝に対して面従背反を決めていたか、と見るほうが良さそうな気がします。
仇池周りが少し訳わからなくなってきたのでちょっと整理しました。もと仇池は443年に滅んでいますが、その後継勢力が宋の武都王として477年まで存続するも北魏に滅ぼされています。そこから武興と陰平に別れ、武興、つまり楊文弘ですがこの年に死亡してあとを継いだ楊後起はやや北魏寄り、陰平、つまり楊炅は概ね斉寄りで立ち回ったようです。ただしどちらも完全従属ではなく、状況次第で立ち回ったもよう。北魏にとっては厄介な栓、南朝諸国にとっては重要な蓋という感じですね。どちらも滅亡がおおよそ553年とのことで、なんだかんだでこの国が南朝の命脈を繋いだ、とすら言っていい気もします。
高帝の存在は、南になだれ込みかけた北魏を食い止めた、という意味で非常に大きかった、と言っていいでしょう。この年北魏は情勢を整え、これまでの戦いで捕らえていた南斉の軍士らを解放。南斉も同じく捕虜を返還し、こうして両国は再びつかの間の平穏を手に入れます。とは言えもちろん、水面下では多くの駆け引きが飛び交っていたことでしょう。それまでは北も南も、ひとまず名君として知られる人物らによる統治の時代が続くのです。




