【1日 481年06月】高帝崩御! 束の間の平衡
【481年06月】
資治通鑑原文1381文字(280/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/1-蕭道成-8/1
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
北魏はここでいったん南征を中断、和親に方針を切り替えたうえ、淮北エリアの勢力充足に舵を切りました。対して、なんとか北魏を食い止めた南斉では、もろもろ力尽きたか、高帝が崩御。武帝が立ちます。
【できごと】
宋の順帝の時代、北魏に使者として派遣されていた人物がいました。殷霊誕といいます。しかし彼が北魏の宮中に滞在していたときに宋斉革命が起こります。これに怒った殷霊誕は劉昶の下に付きたい、と願い出ました。この願いは叶えられませんでしたが、殷霊誕はそのまま北魏に滞在します。するとここに、南斉からの使者がやってきます。車僧朗と言います。ここで殷霊誕から見れば車僧朗は裏切り者の小間使い、車僧朗から見れば殷霊誕は職務放棄の不忠者です。当然のように両者は北魏で対立しました。そして孝文帝は、やはり当然ですが車僧朗を取りました。過去に殷霊誕が、北魏が「蕭道成」から宋を救わなかったとなじっていたので、その咎を問い収監、獄死させたのです。
こうした対応には、孝文帝が南征計画に煮詰まりを感じていたのであろうことを想定できそうです。実際、淮北で決起していた司馬朗之を鎮圧したところで、統治将の薛虎子は彭城の経営を申し出、承認されています。薛虎子の統治は優れたもので、また孝文帝よりの信頼も厚かったため讒言が孝文帝のもとに届いても、一顧だにもされなかったそうです。
また前年に高允が携わっていたとされる新律の改定が完了しますが、ここで制定に名前が上がったのは高閭でした。姓は同じですが、特に高允と血の繋がりはありません。魏書高允伝を読んでもこの部分はスキップされており、なぜここに高允の名が挙がらないのかは気になるところです。なんか病気でもしてたんですかね?
南斉では柔然から対等の立場での親書がもたらされたり、仇池をなかなかコントロールしきれないでいる話が載ったりする、つまりわりと諸国からナメられているという話が載ったあと、高帝の崩御が記されます。その統治モットーは「十年で黄金を土と同じ価値にさせてみせる」で、経済振興があったものと見られます。しかし、大権を握るのが遅すぎた。宋の時代の悪弊をなんとか取り除くまでしかできませんでした。太子の蕭賾が立ちます。武帝です。ひとまず言えるのは、宋とは違い創建皇帝の仕事を太子がきっちり補佐した上での即位となりましたので、ここについての安心感は半端ないです。
またこの年、吐谷渾拾寅が死亡。世子の吐谷渾度易侯が立ちました。しかし吐谷渾と仇池って、どのくらい連携を取ってたんでしょうかね。割と立場の似通っている両国ですから交易はありそうですが、全然わかりません。このあたりを伺える史料もあったら読んでみたいものです。




