【31日 480年06月】北魏、南進…… しきれない!
【480年06月】
資治通鑑原文1916文字(239/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/1-蕭道成-8/1
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
・準メインキャスト
7/16-蕭賾-8/14
7/30-蕭鸞-8/15
【あらまし】
北魏は南侵がうまくいかないそばから平城で僧侶に反乱を企まれます。また馮太后は夫や義理の子から離れた場所に墓所を選定したりと、なかなかに生臭い動きを展開しています。
【できごと】
北魏、南侵を諦めきれません。しかし淮北の民は魏に属することが相当にいやだったようでした。このため高帝は間諜を送って民情を揺さぶり、地元の民を決起させます。このときに頭に立てられた人物が司馬朗之と言いますが、このひとはもしかしたらガチの晋系遺児なのかもしれません。南斉としては自軍を損耗させず北魏を煩わせるのですから、酷薄とは言えなかなかに戦略的な動きです。
もちろん地元民たちにずっと任せるわけでもなく、南斉軍もまた動かしています。ここで名前が挙がるのが、南斉最大戦力のひとり、周盤龍。蘭陵郡出身とのことですから、同じ蘭陵郡出身の蕭氏ともなんらかのつながりがあるのかもしれませんが、ともあれ彼は息子とともに自ら軍を率いて北魏軍に突撃、壊滅させるという化け物じみた働きをしています。
一進一退という感じでなかなか南征が上手くいかない北魏ですが、このとき平城でも大事件が起こっていました。僧侶の法秀による謀反計画の露見です。この事件によって連座となった人物はかなりの数にのぼり、孝文帝が「連座の範囲を狭めよ」と命じたことによって許された人数が千人あまりとのことでしたから、数千人規模の人間がこの乱の謀略に巻き込まれたことになります。
この事件がひととおり片付くと馮太后は孝文帝とともに平城の北にある方山へ赴き、そこの地勢を気に入り、そこに陵墓を設けたい、と建設を命じました。のちにこの陵墓が出来上がるとその規模は南北朝期最大のものになったとのことですので、このことから馮太后の権勢欲がかなりのものであったとは傍証として言えそうです。なお文成帝および献文帝の陵墓はともに雲中、方山の西の彼方です。この墓の距離はそのままこの親子と馮太后との心の距離も示していそうです。
この年はまた南斉から見た仇池情勢も載っています。打ち破った蛮の追撃を掛けたら氐王の楊文弘に撃退されただとか、仇池系の王族を仇池付近に配しただとかの情報があり、仇池、全然滅んでいなさそうです。山あいの地勢であるとか二大国のはざまであるとかの条件を活かして、この当時も巧みに動いていたようです。西方情勢、マジで詳しく知りたいです。




