【12日 404年07月】劉裕体制! 不安なスタート
【404年07月】
資治通鑑原文3310文字(135/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
4/7-拓跋珪-5/17
5/7-劉裕-5/30
陶淵明-6/5
・準メインキャスト
4/3-慕容徳-5/13
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
【あらまし】
劉裕体制が整うも、その周辺勢力は劉裕体制を脆弱なものと見越したか、攻撃を仕掛けてきています。劉裕、なかなか前途多難です。
【できごと】
桓玄の一派には刁氏がいました。この刁氏が資産にあかせてあくどい真似をしていたとのことで劉裕はこの一族を解体、資産を民に分配します。これにより民は潤ったそうですが、一方でそのなかのひとり、刁雍に深く恨まれました。ここから刁雍は雌伏に入ります。
散々に劉裕に打ちのめされた盧循は会稽周辺を諦め、南方に脱出。広州を占拠しました。当時中央の再編に忙しかった劉裕ですから討伐に兵力を回すのも難しく、いったん盧循の実質支配を追認します。言ってみれば臨時同盟のようなものです。
桓氏追撃戦は桓振の奮闘によりなかなか進みません。しかしここで、襄陽に配置されており、後秦とのにらみ合いを続けていた人物、魯宗之が桓振討伐に合流。これで形勢が確定し、桓振は討ち取られました。なおこの抵抗には苻堅のもと太子、苻宏も参加しており、ここで戦死しています。
安帝は無事奪還され、建康に帰還。劉裕らの決起が「皇帝の勅命ではない」どころか勅命を偽称したため少し問題になりましたが、ともあれ救国の英雄として顕彰され、劉毅が淮南、何無忌が会稽、司馬休之が荊州に配されました。しかし直後蜀で乱が起き、地元の名士である譙縦が担がれ自立、さらに後秦に臣従を申し出ます。すぐさま討伐の軍が編まれましたが、この第一回遠征は統制に欠けており、すぐに頓挫しました。またこのどさくさをつき、後仇池が漢中を、北魏が引き続き北辺を攻撃しています。
後燕では慕容熙が妃としていた苻氏姉妹のために暴政乱政を繰り返しています。 南燕では慕容徳の兄の子、慕容超が後秦に母と妻を残して脱出、慕容徳のもとに現れました。慕容徳は自分の息子達を既に戦乱で失っていたため、この近親の子の到来を大いに喜びました。慕容超もまた慕容徳によく仕え、また周辺のものにもうやうやしく応じたため評判を鰻登りとしました。ところで先に結論を言ってしまっておきましょう、慕容超のこれは、凶悪な猫かぶりでした。
さて、長安にこの人物が到着します。鳩摩羅什。中国仏教界におけるウルトラチートです。もともと仏教に帰依していた姚興でしたから、ここから一気に長安で仏教文化を花開かせることになります。ただし資治通鑑はこのあたりをほぼ扱いませんし、十八史略に至っては完全スルーです。本当に宋ころの史家たち、仏教のこと嫌いですねえ。




