【13日 405年06月】慕容徳死亡! 晋は空白
【405年06月】
資治通鑑原文1492文字(270/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
4/7-拓跋珪-5/17
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
・準メインキャスト
4/3-慕容徳▲
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
【あらまし】
劉裕体制周りで制度刷新などもいろいろあったでしょうに、そのあたりがまるまる抜け落ちている不気味な年です。
【できごと】
この年、晋での出来事があまりにも薄いです。どういうことなんでしょうか。司馬休之の荊州統治が当を得ていないと言うことで左遷、その後任が赴任直後に死亡したため劉道規が荊州に。この人事をどう見るべきでしょうか、一面には劉裕の権勢拡大ですが、一面には情勢を見越して軍略的に信頼のおける人物を配した、とも見ることができます。ただ謝安のときもそうですが、身内びいきはどうしても批判が混じることでしょう。この人事に関する批判が驚くほど史書に載らないのは不自然だよな、とは感じます。このあたりのもろもろの事務手続きについて「ちょっと宋書では載せることができなかった」と憶測しているわけなのですが、そのように考えないとつじつまも合わないよな、と感じています。ともあれこのとき荊州で粛清された太原王氏の生き残り、王慧龍が決起を目論みますが失敗して後秦に亡命します。あとこのあたりで一度書いておきましょう、大詩人陶淵明が「帰りなんいざ」と官職を蹴って故郷に引きこもったのがこのあたりの年です。
東晋北辺を攻めていた北魏軍でしたが、このとき晋軍により撃退されています。また柔然も北魏を攻めており、北魏、やや不安定です。
後燕では契丹や高句麗を襲撃するも成果が上がらず、頻繁な宗族処刑が載ります。南燕では慕容徳が慕容超を皇太子と定め、死亡。ここで慕容超は腹心であった公孫五楼を補佐に置き、これまでの南燕功臣らを疎外しました。そして暴政を開始。臣下の封孚から「あなたは桀か紂のたぐいですね」と言われるほどでした。
後秦が仇池を攻撃。この攻撃に耐えかね、後秦に臣従の使者を送ります。一方で後秦は晋からの要請を受け、奪っていた雍州北部を返却しました。この措置に臣下らは反対しましたが、姚興は「劉裕の義挙は賞賛されて然るべきものであろう」と聞かなかったそうです。
西涼では李暠が北涼への対立姿勢をいよいよはっきりとさせ、その上で臣下らに清廉な統治を貫くよう戒めました。その内容は司馬光さんにしてみれば「これを五胡十六国のすべての君主が守っていれば戦乱もひどくならなかっただろうに……」と言ったもので、とても素晴らしいものです。ええ墨守さえできていれば。この当時の情勢を見ていると名目論は強かったものが唱えることで初めて実施されるものであり、弱者が唱えても鼻息で吹き飛ばされる程度の効力しか発揮しないのです。それで勝てるなら、西涼が覇権を取るはずですからね。




