【11日 403年07月】劉裕立つ! 飛躍の初年
【403年07月】
資治通鑑原文9145文字(13/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
4/7-拓跋珪-5/17
5/7-劉裕-5/30
・準メインキャスト
4/3-慕容徳-5/13
4/9-桓玄▲
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
拓跋嗣-6/1
【あらまし】
桓玄簒奪、そして劉裕決起。司馬光さんはこの一連の流れを一大叙事詩として盛大に書き散らかします。この盛大な文字数の約九割が劉裕です。やりすぎです。この決起により桓玄は討たれますが、その残党による抵抗に劉裕たちは手を焼かされるのでした。
【できごと】
この年は資治通鑑でもトップクラスの文字数が割かれる年ですが、何があったか。前回紹介したとおり、桓玄の簒奪及び劉裕の決起です。司馬光さんの意向を汲み、可能な限り劉裕に文字数を割いておきましょう。
晋を牛耳った桓玄。もはやその簒奪を止める者はいません。安帝より皇位を奪うと、その安帝については南方の尋陽に移します。デブだった桓玄が玉座につくと床が陥没したそうです。皆が顔面蒼白になる中、殷仲堪の親戚である殷仲文が「帝の徳の重さ故ですな!」と言ったそうですが、まぁフォローになっていません。
即位の儀式がつつがなく(?)終了すると、劉裕は古傷がいたんだ、と言い出して故郷である京口に戻りました。そしてここで、かねてより水面下で進めていた桓玄打倒の軍を立ち上げます。ほとんど迎撃の準備も整いきれないまま桓玄は建康より脱出し、途中で安帝をさらうと、自身の拠点であった江陵に逃れます。ここで劉裕は建康にとどまって体制の刷新に動き、決起の同朋であった何無忌及び劉毅、そして劉裕の弟の劉道規に桓玄を追撃させます。またこのタイミングで劉裕のもとに劉穆之が合流。この人物は劉裕にとっての荀彧として、この後の劉裕を大いに支えます。また、ここで太原王氏の主筋が処断されます。以降の太原王氏は南朝では微妙な格の家になります。もっとも北朝ではトップ家門として君臨し続けるのですが。
追撃軍の猛追を受け、桓玄は更に蜀に逃れようとしましたが、その途中で殺されました。しかし桓玄軍の残党は親族の桓振を旗印に抵抗。追撃軍は思わぬ苦戦を強いられることになります。
同じ頃、北魏では拓跋珪が臣下を処刑したり古のしきたりにのっとっていない礼制を定めたりと書かれていたりしました。あと拓跋嗣がここで皇太子に任じられます。また北涼と南涼がこぞって旧後涼を攻撃するも後秦に跳ね返されて臣従を誓わされています。南燕では亡命をしてきていた司馬休之らよりの嘆願もあり、桓玄の簒奪を好機として侵攻が計画されましたが、これは慕容徳の病の悪化により中断せざるを得ませんでした。
南で大きな花火が打ちあがる中、北では各国の軋みがいよいよ強くなっているのでした。




