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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇五月】三九四年〇二月~四二三年〇六月

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131/134

【10日 402年08月】柴壁の戦い! 魏秦対峙す

【402年08月】

資治通鑑原文2166文字(212/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 4/7-拓跋珪-5/17

 5/7-劉裕-5/30

・準メインキャスト

 4/3-慕容徳-5/13

 4/9-桓玄-5/11

 4/28-赫連勃勃-6/3

 4/24-姚興-5/25

 5/4-沮渠蒙遜-6/12

 5/4-馮跋-6/8


【あらまし】

 北魏と後秦、柴壁城にて激突。この戦いで北魏が後秦の風上に立つようになりました。また晋では桓玄が自身の権勢を高める中、劉裕に五斗米道討伐を命じています。桓玄の名声失墜と劉裕の名望急上昇が、あまりにも鮮やかな対比として描かれています。



【できごと】

 北魏にとり後燕が南東の蓋であったなら、後秦は南西の蓋でした。それにしても前秦後秦の戦いによってその南西にさして注力せずに済んでいたのは、北魏にとりまこと幸いと言うべきだったのでしょう。こうして満を持して出撃、前年に取られた乾壁を落とすと、その南にあった柴壁城を包囲。救援に出てきた姚興を寄せ付けず陥落させてのけ、失意のもとに撤退する姚興軍を大いに追撃、北魏が并州の覇権を得ます。ただ柔然が後背を突く動きを見せたため、撤収しました。これが柴壁の戦い。ただこの戦いは詳細が魏書に載るものの、その後の時代に編まれている晋書にはほぼ載りません。チーム晋書はどうも、この戦いの推移を北魏側に都合良く盛られているのではないか、と疑っているようです。実際のところ柴壁における拓跋珪の軍略の冴えはあまりにも完璧すぎるので、本当にここまであざやかな完勝したのかよ、とは疑いたくなる気持ちもわかります。


 なお拓跋珪は司馬休之が北魏でなく南燕に亡命したのが拓跋珪による漢人官僚いぢめによるものらしいと聞き凹み、以降漢人いぢめの件数を減らしたそうです。


 晋では、人臣の極みとなった桓玄がその権勢を楯に自身の親族を次々と顕職につけます。ここでは旧北府軍についてのみ紹介しておきましょう。粛清によってメインの将軍が掃除されたあと、その長には桓沖の息子である桓修がつきました。劉裕はその下で盧循、及びその副官である徐道覆の軍を次々に撃破します。そして会稽に出たとき「ここで決起すべきではないか」と考えましたが、地元の名士である孔靖に「十分な準備をし、桓玄が簒奪したところで喉元から決起すべきである」とたしなめられています。なお宋書武帝紀には会稽決起を主張する何無忌を劉裕が同じ理路でたしなめた、と書かれています。たぶんたしなめたのは事実なのでしょうけれど、その内容については孔靖の言葉で盛っていそうです。


 後燕は即位した慕容熙が放蕩の限りを尽くし始めますが、どうも国の規模に対してやっている工事が大きすぎるので、おそらくは慕容雲や馮跋による潤色でしょう。南燕では慕容徳の母らが既に死亡していると知らされ慟哭、以降病に臥せります。南燕の繁栄、早くも翳り始めました。


 登るものも、沈むものもあり。翌年、ついに劉裕が桓玄打倒のため、決起します。


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