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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇五月】三九四年〇二月~四二三年〇六月

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128/130

【7日 399年10月】劉裕登場! 晋はズタボロ

【399年10月】

資治通鑑原文6514文字(32/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 4/7-拓跋珪-5/17

 劉裕-5/30

・準メインキャスト

 3/24-呂光-5/7

 4/3-慕容徳-5/13

 4/9-桓玄-5/11

 4/28-赫連勃勃-6/3

 4/24-姚興-5/25

 5/4-沮渠蒙遜-6/12

 5/4-馮跋-6/8


【あらまし】

 劉裕、ついに登場です。やったぜ。あと西方が笑っちゃうくらいわやくちゃです。



【できごと】


 ところで突然ですが、筆者は劉裕推しです。というわけでこの年はひとつの画期です。晋を揺るがす三つの大事件、すなわち洛陽失陥、殷仲堪敗死による桓玄西方制覇、そして孫恩の乱。司馬道子の策略に加え、司馬元顕は会稽周辺を搾取しており、民の恨みを買っていました。孫恩の立場から五斗米道の乱と書かれますが、その内実は現地の郡守も巻き込んだ大規模反乱です。これまで戦乱に巻き込まれることのなかった会稽周辺はあっさりと孫恩の手中に落ちますが、しかしそこに北府軍、つまりこれまで後燕と戦ってきた劉牢之らが動員されれば、あっという間に追い払われます。ここで司馬光さんはやけに熱量高く劉裕の出自や武勲を語ります。このひと劉裕が中下層士族の出身と理解しておきながら庶民出身の英雄と演出しているくさくて、同担拒否の自分としてはちょっとその書きぶりに引いています。


 なお第一次孫恩侵攻を退けたあと会稽を謝琰、すなわち謝安の息子が守ったのですが、ここで部下を軽んじていたため第二次侵攻の際に殺害されました。この第二次侵攻はより周到、より大規模であり、翌年以降にも続きます。


 後燕では、慕容盛が自身の称号を皇帝から庶人天王に格下げしました。徳少なきゆえ、という感じなのでしょう。まああれだけ処刑を乱発していれば、という感想にはなります。なお直後に高句麗に背かれており、討伐の軍を派遣しています。この軍の総大将は慕容盛の叔父、慕容熙。将才「は」すごい、と評される人物です。フラグですね! なお南燕及び北魏に特に動きはありません。


 西方のカオスはこの年がひとつの極点です。呂光が死亡し呂紹が立つと「当日に」そのいとこの呂纂が簒奪。そこから南涼に攻撃を仕掛ければ、逆に南涼将の禿髮傉檀に直接攻め込まれます。また北涼に仕えていたもと前涼の名士、李暠は段業の統治を嫌い西方に脱出、勢力を固めました。のちの西涼のおこりです。さらに、勢力拡張を目論んでいた吐谷渾視羆は逆に西秦に攻め込まれ、そのさなかに死亡。弟の吐谷渾烏紇堤が立ちましたが、その実権はその妻である念氏が握っていました。


 そして西秦ですが、後秦に圧迫され降伏。滅んでいます。あれっ!? しかし後秦、ぜんぜん書かれていないのに洛陽獲得したり西秦獲得したりで、なにやら領土だけ広がってますね。資治通鑑だけで追っているとこの当時の動きが掴みづらく、なかなかに不気味な存在だと思いました。

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