【8日 400年09月】各地政変! 劉裕の武勲
【400年09月】
資治通鑑原文5197文字(63/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
4/7-拓跋珪-5/17
5/7-劉裕-5/30
・準メインキャスト
4/3-慕容徳-5/13
4/9-桓玄-5/11
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
【あらまし】
この年も引き続きいち将軍劉裕の大活躍が華々しく描かれます。後燕や後涼でクーデターが起こったりと忙しいのですが「こんなグダグダな奴らと違って劉裕さんかっこいい!」がダダ漏れで、いっそ潔いと言っていいでしょう。
【できごと】
孫恩の第二次侵攻は、各地で北府将を打ち倒すほど。ただし劉牢之自身が出向けばたちまち海に逃れます。ここで劉裕の武勲がまた生き生きと書かれるのですが、残念ながらこれは陽動でした。劉牢之を始めとした主力を会稽周辺に縫い付け、船で建康を直接叩く、が孫恩の目的だったのです。そうとも知らない建康では司馬元顕が直言を繰り返す車胤を自殺に追い込み、我が春を謳歌します。そこに孫恩急襲です。風に妨げられているうちに劉牢之らも建康に帰還したため攻撃は果たせず撤収するのですが、その行き帰りで、長江沿岸部には甚大な被害が出ました。ここで劉裕は撤収する孫恩軍を追撃。やはり大きな武勲を挙げています。なお、こうした状況を好機と見たか、北魏が晋の北辺を襲撃しています。
後燕では慕容盛が謀反を喰らい、腹を刺されます。動揺する臣下らに落ち着くよう命じ、後事を託してから死亡するさまはやたらとかっこいいのですが、「そもそもあなたさぁ」とはどうしても思わずにおれません。多事のさなかということで「強い将を王に」と慕容熙が立てられました。じごくのはじまりです。
一方南燕では慕容徳が皇帝となります。このとき「徳」ではあまりに諱として厳しいということで自身の名を備徳に改め、この二字が重なることのみを避けるように、と命じました。このひと、やっていることがどこまでも名君過ぎます。
北涼では沮渠蒙遜がいとこの沮渠男成とともに謀反をたくらむも、直後段業に沮渠男成を売り、誅殺させます。そして「その仇討ち」と決起、段業を討ち果たし、代わって北涼を統べました。あくどすぎる。また西秦はいったん滅亡とはいっても乞伏乾帰は長安で厚遇、その子の乞伏熾磐は南涼にとらわれるも無事、そして両名は間もなくして旧西秦領に配下ともども帰還します。ここで後秦随一の名将、姚興の叔父に当たる姚碩徳が後涼軍と戦い、大破。その武威を示し、各国は後秦に臣属の使者を送りました。そうした中、後涼では再びクーデターが起き、呂纂が殺され、呂隆が立ちます。この動きを見て後秦が後涼に大軍を派出。それを聞き、呂隆は降伏を考えるのでした。
北魏も、後秦も、内部拡充から外征に転じているのが見て取れますね。ということは、ということなわけです。




