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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇五月】三九四年〇二月~四二三年〇六月

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127/129

【6日 398年10月】拓跋珪皇帝に! 北朝誕生

【398年10月】

資治通鑑原文5015文字(69/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 4/7-拓跋珪-5/17

・準メインキャスト

 3/24-呂光-5/7

 4/3-慕容徳-5/13

 4/9-桓玄-5/11

 4/28-赫連勃勃-6/3

 4/24-姚興-5/25

 5/4-沮渠蒙遜-6/12

 5/4-馮跋-6/8


【あらまし】

 この年もぐちゃぐちゃなのですが、特に慕容徳がいわゆる南燕の領土を確保したこと、拓跋珪が国内の礼制を整えたこと、晋末最大の乱、孫恩の乱の気運が高まったこと、などが紹介できるでしょう。あと拓跋珪の皇帝即位はこの年でした、失礼しました。



【できごと】


 南北燕で先に書いてしまいましょう。北は慕容盛が帝位に即くのですが、その後資治通鑑は異常な数の処刑の話を持ち出します。このひと有能だったのかもしれないですけど猜疑心がとんでもなかったようです。


 南は慕容徳が内乱を鎮めるため滑台から出陣すると、滑台でクーデターが起き、その隙を北魏にかっさらわれ根無し草に。しかし慕容徳はめげません。琅邪を占拠したのち各地を攻撃して回り、ついには青州一帯を獲得、広固を都と定めました。この辺りの慕容徳の強さは正直異常です。


 北魏の拓跋珪は崔宏を筆頭として国内の礼制楽制を中原式に整えさせた、と書かれます。一方で漢人官僚を多く罷免、追放したとも書かれています。どうもこの辺り、魏書が漢人官僚の政争を「拓跋珪の好み」でまとめている気がしてなりません。そして395年で帝位に就いたと書いてしまいましたが、このタイミングで即位した、が正解した。失礼しました。また後秦が晋軍の守る洛陽を攻撃したため救援の軍を送っています。ここで晋は「北魏とは親密に付き合っている」と述べます。両国の交易史はかなり面白そうなのですが、その様子は史書からだとなかなか見出しきれません。なお洛陽を攻撃した後秦は、それ以外だと内政を充実させていた、くらいしか書かれていません。


 晋では二回目の決起を経て殷仲堪と桓玄の関係が破綻していました。またこの政争に巻き込まれ郗恢が殷仲堪に殺されます。そして司馬道子に重んじられていた五斗米道の教主、孫泰が会稽で巨万の富を蓄えていたため疑われ、司馬道子によって殺されました。甥の孫恩は海上の島へ逃げ込み、復讐を誓います。一方でそんな司馬道子は司馬元顕に完全に見切られており、酔っ払っていたところを失脚させられ、その官位を司馬元顕に奪われます。もう何が何だか。


 涼のカオスは南涼を視点に見るのが良いのでしょう。禿髮烏孤はこの地の制覇をするために後涼を潰すのが得策と考え、北涼を援助。 よしここから覇業だ! となったところで、しかし禿髪烏孤が落馬して死亡しました。このとき禿髪烏孤は「自分から呂光を喜ばせる真似をしてしまったわい」とうそぶいたそうです。その後、弟の禿髪利鹿孤が立つのですが……打ち切りエンドかな?

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