【5日 397年11月】南北燕! 袂を分かつ
【397年11月】
資治通鑑原文7339文字(22/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
4/7-拓跋珪-5/17
・準メインキャスト
3/24-呂光-5/7
4/3-慕容徳-5/13
4/9-桓玄-5/11
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
【あらまし】
ひとこと、めちゃくちゃです。ここで抑えておきたいのは燕が南北に分かれたこと、そして晋で「三反の将」と呼ばれる劉牢之がその初犯を決めたこと、あたりとなるでしょう。
【できごと】
ここからは南北燕を別に語ったほうがいいでしょう。まずは後燕と北魏。このころ慕容徳は滑台に南下していたため、中山に引き続き、鄴も北魏の手に落ちます。ここで拓跋珪が一度旧後燕領の民を引き連れ、平城に帰還しました。こうなると北魏軍の統制が甘くなります。慕容宝はそこを狙ってリベンジを目論みますがむしろ臣下に乱を起こされ、慕容農を殺されます。そこから慕容徳との合流をねらいましたが、このとき既に慕容徳は自立の意思を固めていました。このため龍城に戻りましたが、そこで宗族に殺されました。ただし慕容宝の息子、慕容盛が即座に乗り込み、彼らを撃滅。そして慕容盛が帝位を継ぎます。
北魏はこの頃内部調整や乱鎮圧に忙しく、外部にあまり手が回っていません。その中でひとつ特記をしておきます。爾朱羽健という人物を取り立てています。姓が示す通り、あの爾朱栄の祖先です。
そして、南燕です。後燕や北魏から追われた慕容麟が慕容徳のもとにやってき、滑台への移動、王への即位を訴えます。慕容徳はその提言こそ受けたものの、その後慕容麟を誅殺しました。かしこい。空いた鄴は北魏が獲得。そんな慕容徳ですから、いまさら慕容宝に来られても迷惑です。殺害を計画しましたが、上述の通り慕容宝には察知され、叶いませんでした。と言うわけで、ここに燕が南北に割れました。
晋では司馬道子と外鎮の懸隔が加速してきたため、司馬道子が名声高い宗族の司馬尚之、休之兄弟を引き入れて対抗姿勢を示します。これが却って外鎮らを刺激、王恭と桓玄が決起しました。このとき劉牢之が王恭の副官になっていたため挙兵を諌めましたが、聴きません。今度は実際に戦いが行われ、桓玄が司馬尚之を打ち取るも、劉牢之が寝返り、王恭は敗死します。なおこの離反劇の影には司馬道子の子、司馬元顕がいました。当時十代でありながら父の弱腰に苛立ち、独自で戦局を生み出すとは、化け物以外の言葉が思いつきません。これによりこの決起も中断されました。そして北府の長に劉牢之が付きます。なお劉牢之は謝安より「あの者に大局眼はあるまい」と評されています。
後涼は二国離反に加え、内乱まで頻発。もはやメチャクチャです。ただ、中央が大賑わいを続ける今、なかなかここにまで文字数をさききれません。「ぜひ皆さんで調べてください」と逃げ文句を打たせてください。




