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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇四月】三六五年〇八月~三九四年〇三月

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114/127

【22日 385年07月】両星落つ! 苻堅と謝安

【385年07月】

資治通鑑原文5977文字(44/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 3/4-慕容垂-5/3

 3/15-苻堅-4/22

 3/26-謝安-4/22

 3/29-謝玄-4/25

 4/7-拓跋珪-5/17

・準メインキャスト

 3/17-姚萇-5/1

 3/24-呂光-5/7

 4/3-慕容徳-5/13

 4/9-桓玄-5/11


【あらまし】

 苻堅と謝安の死亡を筆頭に、各地が激変する年でした。その中でも特にひとつだけトピックをあげるとするならば、拓跋珪の魏王名乗りでしょう。これがのちの北朝、北魏の正式な興りです。



【できごと】


 この年、苻堅と謝安が死亡します。めきっと時代が変わる印象です。


 慕容沖の手から逃れるため五将山に出た苻堅でしたが、姚萇に捕まりました。そこで姚萇から「禅譲してくださいよ~」と言われたので「アホか」と退け、「自殺します」。自殺です。悲しんだ姚萇は苻堅に「壮烈天王」と諡しました。悲しんでいるなら仕方ない。ここで司馬光さんが「勝ちすぎて驕ったのが苻堅の滅亡原因だ」と死人を刺しに行っています。


 さて、実は苻堅、東晋に救援依頼を飛ばしていました。この依頼に応えたのが何故か、謝安。えっあなた軍務できるんですか? しかし謝安は前秦に向かおうとする途上で病を得て建康に帰還、そして死亡します。救国の大宰相っぽくない、もやっとした最期です。


 鄴でなんとか持ちこたえていた苻丕でしたが、苻堅の身が危ういと聞き鄴を脱出、太行山脈を越え、壺関にたどり着いたところで王猛の子、王永より父の死を聞き、皇帝の座に就きました。苻堅には「世祖宣昭帝」と諡しました。あと翌年の話になりますが、苻堅、呂光からも「文昭帝」と諡されています。まぁ、いろいろなひとから愛されていたのもまた間違いがないようです。


 連年怒濤ですが、この年もすごい。鄴を得た慕容垂が勢力を拡大し、その南では翟遼が黎陽に地歩を築いたり、拓跋珪は代王として名乗ったあと間もなくして魏王と名乗り直したり。また呂光は西方遠征から帰還すると涼州を一挙に制圧。さらに鮮卑乞伏部の乞伏国仁は隴西の榆中という地で大単于を自称。これが後に言う西秦の興りです。


 こうした中、長安では苻堅殺害という目標を失った慕容沖が乱脈の末臣下に殺されます。残された旧前燕系勢力は慕容部の疎族であった慕容永を旗頭として東方に帰還せんと動き出します。この集団を西燕と呼びます。空白となった長安は姚萇が獲得、姚萇はそこで秦王を名乗りました。


 そして、晋。劉牢之の大敗により北伐は停滞。獲得した地域を守ることで手一杯となりました。正直なところ、このとき建康の関心はあまり北には向いていなかったようです。

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