第65話 第94回かおる祭
「おはようございます」
きちんと声が出るよう早起きして学校に来た俺は、「多目的室111・112」の白いドアを開いた。
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ついにこの日が来た。みんなの気持ちとは、関係なしに。
第94回かおる祭――戦時中の中断期間を経て続けられてきたこの学校の文化祭、その校内発表当日だ。
誠澄高校とその前身である澄香高校の歴史は、今年でちょうど100年。その1年後、99年前に創立された合唱部は、第1回を除く全てのかおる祭の舞台に立ってきた。
そしてこの第94回が、最後の1回になろうとしている。今日の舞台で合唱部に割り当てられた時間は30分――合唱部にとってのかおる祭は、今日明日合わせてあと60分。
それを覆えさせられるかどうか――第95回のかおる祭の舞台に、100周年を迎えた合唱部のみんなが立てるかどうか。
それが、全校生徒へ向け歌う今日の歌声で決まる。
昔この合唱部は、全国大会の大舞台で歌った。大勢の仲間と共に。
今日の合唱部は、その時と同じか、あるいはそれ以上の大舞台に立つことになる。
消えゆく前の最後のひと華か、大番狂わせの一撃か。
どちらにしても――今日の舞台は8人の仲間で歌う、この合唱部の歴史に刻まれる大舞台だ。
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8時半までに集合して水色のステージ衣装に着替えた俺たちは、ふたりの先生を迎えて本番前の最後の練習に入った。
今朝来た時に里奈には目を逸らされてしまったが、それ以外のみんなは普段と変わりなく、いつも通りに言葉を交わしてくれた。
昨日涙をみせた愛にはどう話しかけていいか分からなかったが、愛の方から「輝さん、ついに本番ですね。緊張してます?」と悪戯っぽい笑顔で声をかけられた。
昨日のことは、まるでなかったみたいに思えた。
いつも通りの体操、そして念入りな発声練習を経て、歌の練習に入る。
あくまで歌を練習するため、もう台詞入りの全体の通し練習はしない。山口先生の指揮を見て、岩村先生がピアノの伴奏を添えて、8人の仲間が歌う。
……。
悪くはない。思ったほどには。
音程は別に低くはない。隣に立つ陽和も、音程のずれや他の仲間を無視するような歌い方はしていない。
しかし――気持ちの整理ができた、というわけではなさそうだ。
みんな、だいぶ力が入った声だ。
力を感じるとか、エネルギッシュな歌声だとかではなく――これは緊張でこわばった声。おそらく全員、胸に、肩に、首に、顎に、強い力が入っている。
恐怖心――これは本番直前の恐怖心だ。
本番中に、やり直しはできない。歌えるのは1回だけだ。だからひと言の歌詞の間違いも、音を見失って止まってしまうことも、許されない。そのことへの恐怖心は、簡単には拭えない。
昨日の気持ちの乱れは、今日の本番への緊張で打ち消されている。マイナスとマイナスがぶつかって片方が打ち負けた。そういうことだろう。
あと、それから――
……意外だった。ソプラノの声量が、足りていない。
女声パートは7人。内訳は高い方から順に――
ソプラノ:3人
メゾソプラノ:2人
アルト:2人
――と、なっている。人数が多いソプラノは、声量的には一番らくなはずだった。
ソプラノを担当するのは琴音、絵里さん、そして里奈。
いま一緒に歌いながら聴いていると、いつも聴こえている強い芯のある声が聞こえない。
聞こえないのは――
琴音でなく、絵里さんでもなく――そう、聞こえないのは里奈の声だ。
もちろん、歌っていないはずがない。歌っていなければ先生の注意が飛ぶ。
里奈だけは、今朝目を逸らされてしまった。里奈はまだ、昨日のことの方を引きずっていて気持ちが下がったまま――そのせいなのだろうか。
そうか。
そうかソプラノは――いや俺たちは、こんなにも里奈に支えられて歌っていたのか。
強いひとつの芯が力をなくして、いつもの強いまっすぐな声が聞こえなくなっている。無意識に頼っていたきれいな声が、今はない。
里奈から一番遠い位置に立つ俺にも、不安感が生まれてくる。
あの、強い声――
どうしても、そばにいて欲しい……
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かすかな音が聞こえて、山口先生が指揮を止めた。8人の歌声と伴奏が、ぴたりと止まる。
――ガチャッ
「合唱部さん、順番もうすぐです。移動お願いします」
ドアを開けて顔を出した実行委員が、そう告げる。
「はい、すぐ行きますね」
山口先生がそう答え、みんなに向き直った。
「みんな、肩の力を抜いて。いつも通りに、ね」
その言葉に全員で「はい」と返事をして、いざ部屋を出ようとしたところで――
「あ、待って待ってー。みんな集まってー」
絵里さんがみんなを呼び止めた。
バラバラと集まってきたみんなの前に、絵里さんはまっすぐ右手を伸ばす。
手を開いて、にこりと笑って――
「ほら、みんな――」
その声に、まず花菜さんが絵里さんの手に手を重ね――みんなで円を作り、ひとりずつその手を重ねていく。
遅れ気味に出した俺の手に、里奈の手が重なった。
触れそうで、決して触れない距離を保って。
「よーし、みんな、がんばろー!」
「おーっ」
絵里さんの声に、みんなの声が重なる。
そしてすぐ、ほどけたみんなの手。解かれる8人の輪。
……さて、行こうか。
・・・・・・
体育館の外で、ひとつ前の団体が出てくるのをしばらく待った。
やがてガヤガヤと前の団体が出てくると、すぐ体育館へ入る。緞帳が降り、客席と隔てられた舞台を、上手から下手へ横切る。
下手に置かれているピアノにみんなで手をついて、昨日と同じように舞台に押し出す。
「足、危ない! 気を付けてよ!」
「はい」
岩村先生の注意を受けつつ、リハーサルと同じ位置にピアノを設置。それから指揮台と、リハーサルで高さ調節済みの譜面台を持ってきて、昨日と同じ位置に置く。
これで、準備は整った。
・・・・・・
まだ予定の時間より早いとのことで、8人並んで緞帳を降ろしたまま舞台上で待機することになった。分厚い幕の向こうから、全校生徒およそ千人のざわめきが聞こえてくる。
普段は聞くことのないそのざわめき――余計に緊張をかき立ててくるそれに慣れるには、俺はだいぶ時間が必要だった。
今でこそ、本番前の熱気と捉えて気持ちが熱くなるようになったが――
「里奈ー、明るく、ね。ほらほら」
……絵里さんが向こうでなにかやっている。
「琴音、肩の力抜いて。ほら、ほっぺた押すぞー」
「む……ふぁい」
琴音の珍しい声が聞こえた。
「愛ー、頑張りすぎないでね。みんながいるんだから」
絵里さん、ソプラノ側からひとりずつ声をかけて回っているらしい。
「花菜、大丈夫だよ。私より背が高いんだから」
「……」
絵里さんの頓珍漢な発言に、花菜さんは何も答えない。
「あはは。いいよー、いちばん向こうの壁だけ見てれば大丈夫だって」
横を見ると、緊張した面持ちの花菜さんの手を、絵里さんがさすっていた。
花菜さん……意外と緊張する人なんだ。
絵里さんは大事そうに花菜さんの手をさすった後、ひとつ隣の千尋の前に立った。
「千尋……うーん、肩に力入ってるね? 私の千里眼はごまかせないよ」
そう言いながら、両手で千尋の肩をぐらぐらと揺らす。
……千里眼?
それから絵里さんは陽和の前に立った。
「陽和、いつも通りでいいからね。私台詞噛むかもしれないけど、よろしくね」
そう言ってから、絵里さんは俺の目の前にもやってきた。
「おー輝くん、さすがに貫禄あるねー。大丈夫そうかな?」
「はい」
そう答えると、絵里さんはにこりと笑う。
「うん、よし。独唱、大変だと思うけど、頑張って」
そう言った絵里さんは、去り際に横目で少しだけ俺の顔を見て、ソプラノの立ち位置へと行ってしまった。
絵里さん――普段の雰囲気と違って、舞台上ではすごく落ち着いている。今までの舞台でも、こんなふうにみんなに声をかけて回っていたんだろうか。
そう――これが本番前のこの合唱部の姿なのか。
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「はい1分前です!」
演劇部員の声と共に、頭上の照明が消える。緞帳の降りた舞台は真っ暗闇に包まれた。ただ聞こえてくる客席のざわめきだけが、重圧となってのしかかってくる。
緞帳の向こうで、放送が入る。
『お待たせしました。次は、合唱部による発表「アニマート!」です』




