第66話 開演
ゴン、と音を立てて、緞帳が舞台から離れた。駆動音を立てながらゆっくりと上がっていく。客席が少しずつ視界に入ってくる。
やがて緞帳が上がり切り、照明が100%で点灯した。
重ささえ感じるほどの強い光、太陽より熱いその熱。
それに抗って、両足で立つ。光の急流に逆らうような抵抗感――
全身に力がみなぎる。気持ちと身体が引き締まり、気分がほのかに高揚する。
これ――初めは緊張してばかりだったけど、今はこの瞬間がいちばん好きなんだ。
明るく照らされた舞台の床がまぶしく見え、そして舞台の先端より向こうは真っ暗になって見えない。すぐ目の前に広がる奈落のような闇は、正直なところまだちょっと怖い。
闇の中に点々と、弱々しいサイリウムライトの光が見える。姿は見えないが、あの光が見えるところ全てに今日のお客さんが座っている。
暗闇の向こうから、全校生徒の拍手の音がなだれ込んできた。
さあ、始まりだ――
・・・・・・
隣に立っていた陽和が、一歩前に出る。
前に向かって、大きな声で――
「こんにちは、合唱部です! 今年もこの舞台に立つことができて、うれしく思います!」
客席から、雪崩のように拍手が起こった。千人同時の拍手は、やはり大きい。
「今年の発表のタイトル『アニマート!』は、音楽記号で『生き生きと』『元気に』という意味です。これまでの先輩方に負けないくらい生き生きと歌います。よろしくお願いします!」
そしてもう一度、全校生徒の拍手。
ここで陽和は下がり、次に琴音の台詞が入る。
「今年、合唱部は創立から99年目を迎えました。そして今回、その歴史の中で初めて男子生徒が演奏に参加します! 本日は、99年目にして初めてとなる、男女合わせた混声合唱をお届けします。新たな装いとなった私たちの歌を、どうぞお楽しみください!」
新たな装い――
それがこれ1回限りかもしれないことは、お客さんに気取られないように……
次は花菜さんの台詞、だったが――
「まず……」
大きな声が出ず、台詞が消えた。
「まず歌うのは――」
言い直したその言葉は、マイクまで届いている。客席の壁から、反響が返ってくるのが耳で感じ取れる。大丈夫だ。
「――有名なアニメ映画のエンディングで使われたあの曲。やさしい歌詞とメロディーに包まれながら、映画のシーンを思い浮かべてみてください」
花菜さんの台詞はクリア、次は――里奈。
「そしてその次に歌うのは――」
ちょっと声が小さい……ただ地声の高さに助けられて、声は通っている。
「――少し、懐かしい曲。昔のアニメの主題歌ですが、歌詞を聞けば分かる人も多いのではないでしょうか。それでは、2曲続けてお聴きください」
……よし、ほぼ練習通り。台詞は終わった。
下手から落ち着いた足取りでやって来る山口先生。ピアノの椅子に座る岩村先生。俺は指揮者である山口先生の姿を目で追う。
山口先生が一礼すると、また大きな拍手が湧き起こった。
これまで拍手ばかりさせて何も披露しないでいたが、ここからは――
山口先生が指揮台の上に立ち、力のある笑顔で俺たちを見る。ソプラノから順に、ひとりずつ。
最後に視線を受けた俺は、ぐっと力をこめた視線を返した。
山口先生はふっと微笑んで――それから、すらりと背筋を伸ばした。
先生の姿を注視しながら、胸に残っていた息を吐く。歌うために必要な、息――最初の呼吸をするための予備動作。調子はいつもと変わらない。
足を肩幅に開き、つま先から腹部までを土台としどっしりと。バランスは前後左右均等、ぴたりと真ん中に。その上に胸・肩・首・頭を静かに乗せる。どこにも力は入れない。
……。
山口先生の右手が、すっと挙がった。
・・・・・・
ふわり、と揺れたその手に、身体中の神経を同調させる。
岩村先生がシンプルでやさしげな前奏を弾き始める。4分の4拍子で振られる山口先生の手に曲の流れを感じ取って……
発音1拍前、瞬時に目一杯まで空気を吸う。
最初の1音、正確な音程で、子音をはっきりと――
♪――
よし、始まった。
出だしで大きなミスはなく、そのまま流れるように歌が続いていく。この曲は、初めは全てのパートが同じ音。
……。
少し、声が小さいか。
やはり、相応の緊張はあるようだ。
合唱部にとって、舞台は普段立たない場所。千人のお客さんを前にこんなにライトに照らされて歌う練習は、やってない。
声が客席全体に届かないとまずい。俺が、少し声を大きくしようか。俺が歌うのは主旋律だ。これさえ聞こえればとりあえず、歌としてはちゃんと聞こえる。
だが……そうすると主旋律は助かるが、他パートはかえって混乱するだろう。急に大きくなった主旋律に、押されてしまう形で。
どうする――?
……考えているうちに最初のフレーズが終わってしまった。ここからは各パートが別れて歌っていく。
……。
そっと、あくまでそっと、じわじわと……慎重に声量を上げていく。指揮をする山口先生を注視しながら。
山口先生が、ふとこちらを向いた。
笑って、小さく手のサインを見せながら、うなづいて……
よし――「出せ」と言ってる。
ぐっと声量を上げる。「出し過ぎ」と言われない程度まで……
山口先生はにっこりと笑ってから、他パートの方を向いた。
これくらいか。
いつもよりどれくらい増したか、覚えておく。この歌も、そしてこの後の歌もこのくらいの大きさで歌うことになるだろう。
声量を増したぶん、当然呼吸は厳しくなる。負担がだいぶ大きくなるが、厳密に呼吸を管理しそれを気取られないように。息が足りなくなって尻すぼみになるのは、絶対にだめだ。
この曲は、独特な作風で今も人気を博す映画会社が作った作品の、エンディング曲として使われたもの。やさしくて奇をてらわないメロディーは、こうして最初に歌う曲にはもってこいだ。
跳ねるようなピアノのリズムに足をかけるようにして、軽やかに前へ。この曲のサビは大きな盛り上がりがない。やさしげに、楽しげに――
……。
やはり、乱れてくるか。
山口先生が他パートに対して、必死にサインを送っている。「もっと声を出して」と。俺の声量に押され気味になっている。
声量を減らそうか……?
いや、この声量はさっき山口先生と決めたものだ。あれから「もう少し弱く」との指示は来ていないから、声量はこのまま維持するべきだ。
長すぎない間奏を経て、2番へ。
もう一度同じメロディーを、違う歌詞を乗せて歌っていく。山口先生からは「声を出して」のサインが出続けている。
そしてもう一度、軽やかに進むサビへ――
――!
歌詞が、ふたつ聞こえた――?
ぐっと全体の声量が下がる。ひとり、ふたりと声が消える。それにつられてもうひとり、さらにもうひとり――連鎖していく。
誰かが1番と2番の歌詞を間違えた。それを聞いてしまった他の仲間も自分の歌詞に自信をなくして、頭の中ではふたつの歌詞がごちゃ混ぜに――
歌っている途中にこうなったら、まず直せない。舞台上で、楽譜なんて持ってない。歌詞の確認はできない。
このままひとりずつ巻き込まれていって、そして――
歌が、消える――
腹に力を入れ、声量を目一杯に上げる。歌詞はたぶん合っている。
とりあえず、誰かひとりがなんとか歌い続けていれば歌は続く。この際仕方ないから、各自一旦止まって俺の声と歌詞を目印にして入りなおしてくれ。
歌詞間違いでバランスを失い歌は半ば消えかかったが、次第に声が戻ってきた。複雑な歌ではなかったこともあって、なんとか持ち直した。
この後もう一度サビのメロディーを繰り返す。歌詞は1番の方だ。ややまぎらわしいが、どうか。
今のでみんなの頭の中は混乱状態のはず。歌っている途中――考えることが多く、しかも待ってくれない歌の途中では、その混乱は直せない。
歌詞が違うのはサビの初めの部分だけだ。そこさえ歌ってしまえば後はいい。みんな、なんとか頑張って。
みんなの目印になれるよう、声量を大きめに保つ。大丈夫、俺の声には絶対に間違えはないから。
初め、ふっと全体の声量が下がったが――今度はすぐに戻ってきた。そうだ、このまま曲の最後まで行けばいい。
最後の音を岩村先生の伴奏と一緒に伸ばし……高く挙げられた山口先生の右手が閉じられるのに合わせてすっと音を切った。
1曲目が、終わった。




