第63話 崩れた8人の輪
うん……?
なんだ? 音が少し低いぞ。どうした?
・・・・・・
午後の練習は、妙に精彩と協調性を欠いていた。
隣で歌う陽和は音が高くなりすぎ、やや周りを無視するような歌い方が目立つ。音の強弱も全体的に強めになっている。
あんな言葉を交わした後だ。たぶん有頂天になっている。
人間の身体という楽器は、感情によって音がずれる。雨が降ってじめじめすると、みんな音が下がってしまうなんてこともある。
歌う時の感情は明るく、音はその音の範囲内で高めにとるのがいい。
でも今の陽和はさすがに明るすぎ、ひとりで歌い過ぎている。音は高く外れている。
まだ後に練習が控えていた昼休みに、ああいう言葉を交わしたのはまずかっただろうか。練習が終わって帰る時だったなら、次の練習までひと晩おけるからもう少し落ち着けたはず。
――それはまあ理解できるとして、陽和以外の音が低いのはどうしてだ?
午前の練習は問題なかった。みんな程よい感じの熱量で、音はいつも通りに出ていた。
今は各自バラバラに音が下がり、陽和の音が上がっていることもあって響きが合わない。音の強弱もフォルテがいつものメゾフォルテ並みしか出ていない。一緒に歌うこちらは必死の調整を続けるが、これでは合わせようがない。
ふたりの先生も異常は察知しているようで、山口先生はもう3回も「どうしたの?」と言っており、岩村先生も困惑したように表情を固くしている。
全員同時に、揃って体調不良か――いや、そんなはずはないだろう。
昼休み――俺と陽和がいなかった時、何かあった?
けんかでもしたのか……? いや、この部屋に戻ってきた時、みんなはいつも通りに見えた。険悪な空気はなかった。
なんだ? どうしたんだ――?
・・・・・・
一度クラスの点呼へ行ってきて、それから放課後の練習に移った。
しかし状況は変わらず、山口先生の「今日はもうやめにしましょう」との言葉で練習は予定より早く切り上げられた。
みんなで1階の更衣室を使い、ステージ衣装から制服に着替える。帰り支度は、すぐ整った。
……。
俺は――しばらく、みんなの様子を見てみることにした。
練習室から持ってきてあったキーボードを1台出して、みんなから少し離れた場所で自主練習の準備をする。
「あれ、輝? まだ練習するの?」
とことこ、とやって来た陽和が機嫌よさげに言ってきた。
……ぐっと身体を近寄せてくる。
周りに気取られないよう、あくまで普段通りに答える。
「うん、ちょっとだけね。先に行って正門のところで待ってて。すぐ行くから」
「ううん、私もここで待つ。一緒に帰ろうよ」
そう言ってもっと近寄ってくる陽和。周りの視線が、気になる……
陽和が離れようとしないので、俺はひとさし指で陽和を招いて耳を寄せるよう合図した。
「……みんなにバレたら、まずいでしょ。別々に帰るように見せかけるから、先に行って。ちょっと時間を置いたら俺も行くから」
それを聞いた陽和は、花を咲かせるように笑顔になった。
「うん、わかった。じゃあ正門で」
そう言って、とことこ、と立ち去っていく。
陽和は鞄を背負い「失礼しました、さようなら」と言って部屋を出て行った。
よし……
・・・・・・
とりあえず簡単な曲を練習しつつ、みんなの様子をうかがってみる。
しばらく間をおいて、琴音がひとりで帰っていった。
あ――
まずい……琴音はいつも陽和と一緒に帰るんだった。
今日の不自然さ――琴音には気付かれただろうか。
……あれ?
ちょっと待てよ、部長と副部長が帰ってしまったら、部屋の鍵は誰が返しに行くんだ?
琴音の足音が聞こえなくなってしばらくしてから、花菜さんがみんなに向かって言った。
「ふたりとも帰っちゃったね。鍵は私が返しに行くよ。みんな、早く帰ろう」
「輝くーん、練習は明日でいいよ。輝くんも早く帰って」
続けて絵里さんにそう言われてしまい、俺は練習のふりができなくなった。
仕方ない、片付けるか。
・・・・・・
キーボードを片付け、楽譜を鞄にしまう。忘れ物はないな。
鞄を背負って白いドアに向かう。途中、床に座った愛が何か言いたげにこちらを見ていた。
ドアノブを回して、ドアを引き開ける。
「失礼しました、さようなら」
廊下へ出て、ドアを閉じた。
結局、何があったかは分からなかった。
・・・・・・
1階の長い廊下を歩いていると、後ろから、ばたん、と強くドアを閉める音がして、たたたた、と速い足音が追ってきた。
立ち止まって振り向くと、里奈が今にも駆け出さんばかりの勢いで向かってくる。
里奈は俺の前でぴたりと立ち止まった。
それきり、何も言わない。うつむいて、いつものきらきらした笑顔が見えない。
「里奈……? どうした?」
里奈はもう鞄を背負って、これから帰るところらしいが……いつもみたいに、おしゃべりをしてこない。
「里奈?」
「輝さん――」
ようやく口を開いた里奈は――
「輝さん、好きです――!」
目をぎゅっとつぶって、そう叫んだ。
「――さよなら!」
・・・・・・
勢いよくそう言った里奈は、振り向かずに足音を響かせて行ってしまった。
「好きです」……?
「さよなら」……?
ふたつの言葉が、頭をめぐる。
遠くでドアが開く音が聞こえるまで、俺はその場に立ち尽くしていたことに気付かなかった。
・・・・・・
廊下をすたすたと歩いてきたのは、愛。
こちらを見て、困ったような苦笑いを浮かべて。
目の前で立ち止まった愛は、俺に言った。
「輝さん……輝さんの気持ちは分かりますけど、今日のはさすがにちょっと酷いですよ。……陽和さんも、ですけど」
――?
何のことだ――?
「里奈、成長遅いですからね。体も、こころも。自分の輝さんへの気持ちが何なのか、分かってなかったんですよ。だから、輝さんとあんなに楽しそうに過ごせていたのに――今日、分かっちゃったんです」
「分かっちゃった」……?
俺への気持ちって、なんだ――?
「里奈が輝さんに懐いてたのって、単純に好きだったからですよ。本人はその感覚が『好き』だって分かってなかっただけで。それが今日、あれを見て、その時に分かっちゃった」
あれ――?
「つまり里奈は今日初恋をして、その瞬間に初めての失恋をしたんです」
あ――
『輝さん、好きです――!』
『――さよなら!』
里奈が叫んだふたつの言葉は――
そういうことだったんだ……
「あーあ、あと2日だけ我慢してくれればよかったのに。ああいうのは、かおる祭が終わった後にしてほしかったですね……見えてましたよ、部屋から」
「ああいうの」って……まさか、昼休みのあの時の!?
いや有り得ない、あの中央廊下は完全な死角だったはずだ。部屋から見えたなんて――
「いま使ってる部屋、廊下の突き当りにあって広さは校舎の幅一杯。だから南と北の両側に――中央廊下の側にも、窓があるじゃないですか」
……嘘だろ。
あの部屋の北の窓からは、中央廊下が見えていたのか。
「輝さんは、合唱部のヒーローだったんです。初めての男子部員――それも力強くて、やさしくて。みんなやられちゃいますよ、輝さんなんかと一緒にいたら」
みんな……?
陽和と里奈だけじゃなくて、「みんな」――?
まさか、まさか今日の練習は――急な失調の理由は、それ?
「さすがに私も、みんなの気持ちを詳しくは知りません。知っているのは、みんなそれぞれに輝さんのこと、いいなって思ってたってこと。知らなかったのは輝さんと陽和さんと、あとは里奈くらいでしたよ」
愛は、その顔を下に向けた。
「輝さんには陽和さんがいるから、みんな自分はたぶんだめだろうな……って思ってはいたんです。でも、せめてかおる祭まではその気でいたいな、って。それなのに……こんなのひどいですよ」
……。
「まあ、告白するのも付き合うのも勝手ですし、私が言っていることも勝手なことですけど……もうちょっと、せめてもうちょっとだけ、周りを――私たちを、見てほしかった」
顔を上げる愛。ぎこちない笑顔に、わずかに浮かんだ涙。
「かおる祭が――本番が終わった後だったら、みんなわーっと泣いてそれで終わりだったのに。みんなその気のまま、舞台に出られたはずだったのに。……どうするんですか、今こんなことになって」
どうするって……
……どうしようもない。愛の言うことが本当なら、今から心の整理とか、そんな事をする余裕も時間もありはしない。
「……全部、私たちの勝手ですけど、ね。一方的にその気になって、勝手に失恋して、勝手に乱れて。でも……」
愛の眼から、つっと涙がひとすじ流れた。
「そんなに、理性的になれないですよ……」
その声は、廊下の空気に吸われるように消えていく。
「……じゃあ、輝さん。また明日」
そう言って、すたすたと立ち去る愛。
長い廊下にひとり、残された。




