第61話 リハーサル
翌、木曜日――かおる祭前日。
俺は特に意見も言わずに決まったクラスTシャツを着てクラスの点呼を受けた。
午前中はクラス展準備をし、午後からは部展準備に行ってもいい――そう伝えられ気を揉んだが、ステージ発表団体はリハーサルの都合があるので朝からクラス展準備を抜けていいと聞き、鞄をひっつかんで陽和のもとへ駆け寄った。
「陽和、行こう」
「ごめん私、琴音と鍵もらいに行かなきゃいけないから。先に行ってみんなと待ってて」
そうだった。部長の陽和は部屋の鍵を持ってこなければならない。
「……鍵、間違えないでよ」
「ふふ、分かってるよ。大丈夫」
今日はもう、いつもの「多目的室401」じゃない。
「それじゃ、先に行く」
「うん」
そう言葉を交わして、鞄を背負い教室を飛び出した。
どうせ昼飯は向こうの部屋でとるだろうから、鞄ごと弁当と楽譜を持って行く。夕方の点呼でクラス展の教室に戻るはずだけど、その後また練習のために合唱部の部屋に戻るだろう。だから荷物は、ここになくていい。
・・・・・・
1階に向かって東階段を降りていくと、2階まで来たところで行く手を阻まれた。
階段の手すりと、反対側の壁際に一脚だけ置かれた椅子。両者が細いロープで結ばれて、「立入禁止」と書かれた札が下がっている。
同じ階段で他の生徒が見ていたが、俺はそのままロープをまたいだ。
振り向かず、誰もいない1階への階段を降りていく。
共学化に合わせて建てられた新校舎。その1階には生徒の出入口と職員室、放送室、生徒会室など特殊な部屋が集められている。
かおる祭の間はここが本部になり、関係者以外は立ち入りが禁止されるとあらかじめ聞かされていた。
新校舎1階を立入禁止にするため、今日からは生徒の出入口まで閉じられている。鍵は掛かっていないが、出入りできるのは基本的に実行委員か教員だけだ。
生徒・来校者の出入りは、共学化前からある旧校舎から行う。新校舎へは、校舎間をつなぐ長い中央廊下を使うよう言われている。
合唱部に割り当てられた部屋は「多目的室111・112」。これは1階の東の端にある部屋だ。
立入禁止のエリアのいちばん奥――そこが本番までの最後の時間を過ごす場所になる。
「多目的室111・112」には、昨日荷物の移動で初めて入った。ひとつの部屋を仕切りで区切って、ふたつの部屋にできるようになっている。
天井にレールがあって、壁代わりになる仕切りを移動させるものだ。昨日は仕切りが閉じていたので、開けて広く使おうと動かしたが、天井のレールに仕切りが引っかかって動かなくなり、だいぶ難儀した。
部屋の数字がふたつあるのは、仕切りで区切って別々の部屋扱いにしているから。入口は「111」の側にしかないので鍵はひとつのはずで、実質ひと部屋だ。
・・・・・・
「おー、輝くん早いねー」
静かな階段を降りて廊下に出ると、1階の奥の白いドアの前に絵里さんがひとり佇んでいた。
「絵里さんも、早いですね」
「うん、私すばしっこいから。でもちょっと寂しかったよー。ここ暗いもん」
そう言ってすすっと近寄る絵里さん。確かにここは薄暗い。
廊下の南側には生徒指導室・進路指導室・展示室・応接室・広報室が並び、その壁と窓なしのドアのせいで外の光が入らない。北側には多目的室や更衣室が並んでいて、外は見えない。
それに今日1階は立入禁止だからか、廊下の照明も落とされている。「多目的室111・112」の扉の前は淀んだように暗くなっている。
「去年もこんな感じだったんですか?」
「うーん、去年はこの校舎なかったからわかんない」
……そうだった。
「ふふ……大丈夫だよー、輝くん」
絵里さんがやさしく笑いかけてくる。
「いつも通りに歌えばいいの。何も変わったことはないんだからねー」
そう言って絵里さんは俺の二の腕にぽんぽんと触れた。
落ち着いて佇むその姿――絵里さんはまるで生きたお人形さんのようにこちらを見上げていた。
・・・・・・
みんなが集まったのは、それからすぐだった。
琴音と一緒に早足でやって来た陽和が、手に持っていた鍵を差し込んで回す。
ガチャン、と音を立てて鍵が開き、陽和がドアノブを回して白いドアを開ける。
普通のドアノブ――そうだ、ここはいつもの防音室じゃない。
室内には、もう合唱部の荷物が運び込んである。昨日整理したカゴ、キーボード2台。
ピアノは移動できないので練習室に置いてきてあり、代わりに音楽室にあった電子ピアノを運び込んであった。いつもはにこにこしている音楽の先生が真顔で「気を付けてね」と言うので、始終おっかなびっくり運んできた。
みんなで鞄を置いて、それから――水色のパーカーとジーパンを取り出す。
俺のクラスTシャツの役目は、ここまでだ。
・・・・・・
ステージ衣装に着替えたみんなが室内に並ぶ。
部屋の一番前に置かれた机には、99年間にわたって合唱部員を見守り続ける、動かないメトロノームが置かれている。
後から来た山口先生と岩村先生が、俺たちと相対する。山口先生は白いブラウスと黒い細身のスカートで、岩村先生はいつもより締まった印象の礼服で。
いつもと違う雰囲気――これが本番の俺たち。
この空気――
いい。すごくいい。
本番を目前に控えた緊張感。大きなことをする前の怖さと、みんなでそれに向かっていく高揚感。本番前だけの、特別な感覚。
――よし。
・・・・・・
体操と発声練習を済ませ、リハーサルの順番が来るまで練習を行う。
とは言っても、あくまで最終確認だ。もちろん手は抜かないが、今の段階から練習して上手くなることはない。
でも――みんなの真剣さは、いつも通り。
この「いつも通り」を、本番の舞台の上へ持って行く。
・・・・・・
……?
なにか聞こえた気がして、ドアの方を見る。すぐ指揮を振る山口先生へ視線を戻したが、先生も気付いたか、指揮を止めた。
入り口のドアが開かれ、クラスTシャツ姿の生徒が顔を出した。
「合唱部さん、リハーサルもうすぐです。移動お願いします」
時計を見ると、もう昼前。予定よりだいぶ遅れている。前の団体に時間がかかったか。
「はい、すぐ移動します」
部長の陽和が答える。
「先生、お願いします」
「はい、よろしく」
「うん」
ふたりの先生がそう答えて、俺たちは部屋をそのままに、ドアに鍵だけかけて体育館へ向かった。
・・・・・・
ひとつ前の団体が出てくるまで、体育館の外でしばらく待った。
やがて合唱部が舞台に入り、すぐ準備にかかった。予定が押しているので、大急ぎだ。
「台は使いますか?」
「いえ、なくて大丈夫です」
演劇部員の問いに、陽和が答える。ここからは、舞台を扱う演劇部と調整を行う。
もっと人数が多ければ2列に並んで後列が台の上に立つが……8人では、使えない。8人、1列で台に乗るかと検討もしていたが、やめにした。
客席に向かって右側、下手へ急ぐ。そこに置いてある舞台用のピアノを、舞台に出さなければならない。
いつもと違う、黒い大きなピアノをみんなで手をついて押す。
「足、気を付けて!」
岩村先生が注意の言葉を飛ばす。
このピアノに足を轢かれたら、だいぶ痛い惨事になる。その怪我では明日のかおる祭には出られない。
そのくせピアノの脚は、押そうとするとどうしても俺たちの足に近くなる。重いピアノを、緊張しながら押していく。
「この辺りでいいですか?」
「ええと……岩村先生、どうですか?」
「うん、これでいいよ」
ピアノの位置が決まり、里奈が下手からピアノの椅子を持ってきて置いた。
続けて愛が指揮台、千尋が譜面台を持ってくる。
「よい、しょ……先生、ここでいいですか?」
山口先生に指揮台の位置を確認してから、千尋が譜面台をその前に置く。山口先生が指揮台に立って、千尋が譜面台の高さを合わせる。
幾度かの微調整の後、準備は整った。
「はい、みんな並んで!」
陽和の言葉に、みんながいつもの列をつくる。俺はアルトの位置に立った陽和の左隣に、軽く足を開いて立った。
「それじゃあ始めますよ、歌は曲の初めと終わりだけ歌ってください」
演劇部の先生の言葉で、リハーサルが始まった。
・・・・・・
舞台の前には4本のマイクが、マイクスタンドの上からこちらを向いている。
「……」
嫌いだ。
お前たちはマイクを使わないと、声も届かない――そう言われているようで。
舞台の前に設置されたマイクには、屈辱と悔しさを感じる。
ただの独りよがり、なのかもしれないが。
「緞帳下ろします――気を付けて」
舞台の前の大きな幕――緞帳が下ろされ始めた。
下手で緞帳を操作する演劇部員が、こちらを見ている。
緞帳は相当な重量があるらしく、近付くと強めに怒られる。いま頭上に並んでいる照明もひとつひとつがかなりの重さらしく、舞台の上はいつも空気がピリピリしている。
わりと死亡事故があり得る舞台の上――演劇部はよくやるものだ。こういう時だけ舞台に立つ俺たちでさえ、怖いと思うのに。
ゴン、と音がして、いちばん下まで来た緞帳が止まった。
準備は、できた。
・・・・・・
台本通りに初めの台詞を入れてから、緞帳を上げる。
上がったら次の台詞、続いて1曲目・2曲目を連続で歌う。
歌を歌う場面では、演劇部の先生に頼んで背景の色を変えてもらう。
舞台から見て遥か向こうの小さな窓、調光室にいる演劇部員が無線越しに先生と話しつつ、舞台の後ろに置かれた照明を操作して色を変えていく。それを見ながら、さらに微調整を頼む。
「マイク、もう少し大きくする? 舞台にも少し流そうか?」
歌を聞いた演劇部の先生が、そう言った。
「先生、どうですか?」
陽和が山口先生に意見を求める。
「そうだね、お願いしようか」
「音響さん――」
演劇部の先生の指示で、マイクの音量が上げられ舞台にもその音が流されることになった。自分たちの声が小さいとき、舞台にその声を流してもらった方が歌いやすいのだ。
「……」
奥歯を噛みしめた。
……ただ、これは仕方ない面もある。
ここは音楽ホールじゃない。普通なら黒い幕を上げて、代わりに反響板を下ろして歌う。反響板は舞台の上、後ろ、左右を囲む。
今ここにそれはない。ここは本来、歌うのに使う設備ではないのだ。
それでも……自分たちの声だけで歌いたいと思うのは、俺のいつものこと。やっぱり独りよがりなんだろうけど、これを見て歯を噛みしめなかったことはない。
――だってコンクールの舞台なら、マイクなんて1本もないじゃんか。
・・・・・・
「ええと……これ、どうするの?」
演劇部の先生が、少し困ったように言った。
岩村先生が、俺を手招きする。俺はそちらへ歩いて行って、舞台の下の演劇部の先生に向かいしゃがみ込んだ。
「ここでピアノを……はい、キッカケは指揮者のこの手の動きです。そうしたらすぐ暗転してください、照明は少しだけ残して」
「どれくらい?」
「足元が見えればいいです」
先生が無線でなにかつぶやくと、照明がふっと暗くなった。
「いま10%だけど、どう?」
「もう少し暗くても――」
さらに照明が暗くなる。
「いま5%」
……舞台上から見ると、ほのかな月明り程度。
大丈夫だ、足元は見える。
「これでお願いします」
「はい。この後は――30秒?」
台本を見た先生が聞いてくる。
「はい、みんながハケる時間だけ点いていればいいです」
「うーん……ちょっと確かめようか」
みんなに所定の位置に並んでもらって、台本通りハケてもらう。
「ちょっとギリギリかな。もう少し長くするのはだめ?」
「いえ、長すぎても大丈夫なくらいです」
「45秒でどう?」
「それでお願いします」
舞台が思っていたより広かった。合唱部は普段舞台で練習しないから、いまいち大きさや距離感がつかめない。
「その次、これは――」
「今から舞台の真ん中に立ちますので、そこに」
そう言って、俺は本番通りの位置に立った。
山口先生と岩村先生に目配せしたが、ふたりともそっとうなづくだけ。
「ここです――目印、お願いします」
下手からやって来た演劇部員が、俺の立ち位置に緑のテープでバツ印をつけた。
演劇部の先生が、もう一度台本に目を落とす。
「これ――ここ以外真っ暗になるよ。大丈夫?」
「はい、ここまで歩くだけですから」
「そう。じゃあ――」
強烈な光に、照らされた。自分の身体と足元、それ以外は何も見えない。
……。
「これでお願いします、それと――」
俺の頼みに、先生は目を見開いた。
「――いけるの?」
「はい」
……おそらく今、この舞台を見ている全員が面食らっただろう。
俺も、頼むのには少し勇気が要った。
でも初めから、頼む以外に選択肢はなかった。
それために、俺はここまでやってきたんだから――
・・・・・・
合唱部のリハーサルは、終わった。
次にここに立つとき、舞台の向こうには千人の生徒たちが座っている。




