第60話 かおる祭へ - 記憶を継いで
週が開けて、月曜日――
6月に入り、かおる祭までの日数はついに2週間を切った。
授業時間が文化祭準備に充てられるようになり、急速に進み始めたクラス展の準備に校内のみんなが浮かれ、活気づいてくる。放課後も多くの生徒が学校に残って、それぞれの作業を進めるようになった。
合唱部の練習は、そんなクラス展の準備よりもさらに熱を帯び、厳しいものになってきた。
本番が近いため先生はふたりとも来るようになり、いよいよ本格的に指揮と伴奏が入るようになった。舞台上での台詞や各自の動きの練習も繰り返され、「小さな本番」が練習室の中で行われていく。
今度の舞台で歌うのは8人、対するは全校生徒――ほとんど本番の機会が来ないこの合唱部にとっては、おそらく1年の中で最大のイベントになる。
それに、合唱部がかおる祭で歌うのは――これで最後かもしれない。
ほとんどの生徒は、その事を知らないはず。来年のかおる祭のステージ発表団体一覧に「合唱部」の表記がなくなっていても、気付く者はいないだろう。
この学校に合唱部があったことは、早ければ今年中に忘れられるかもしれない。盛大なお別れ会で手を振って終わるのではなく、ただ、消えていく――
いま、かおる祭に向けて練習するみんなは、足りない人数と足りない技量と、足りない声援に苦しみながら、抗えない「終演」に抗おうと精一杯の力を尽くしている。
・・・・・・
問題だった「あの曲」の朝の練習は、陽和がやや不安がっていたため少し長く行って、練習開始からちょうど1週間、水曜日の練習を最後にやめにした。以降は昼休みだけ練習することになった。
そして次の木曜日から、我慢させられていた朝のおしゃべりの時間を得た里奈が、教室にやって来て堰を切ったようにおしゃべりをしてくれた。
かおる祭へ向けて俺が合唱部に参加してしばらくしてから、里奈はずっとこうして俺と話してくれる。それが結構楽しくて、俺も少し話題を考えてから学校に来るようになった。
でも……
里奈は俺をどう捉えているのか。ただひとりの「海野輝」か、それとも「合唱部の先輩」か。
かおる祭が終わった後、俺が合唱部から抜けても、里奈はこうして来てくれるのだろうか――
俺はあえて、それを考えないようにしながら里奈の相手をした。いつまでも続くかのようなおしゃべりは里奈と俺の話ばかりで、かおる祭の話は決して話題に上らなかった。
・・・・・・
明からは、俺が頼んだ例の件……「合唱部を器楽部の定期演奏会に出演させられないか」という件の交渉状況について、一度だけ報告を受けた。
明は色々と工作をしているようで、聞かされた話は長かったが――結論としては「進展なし」だった。
頑張ってくれている明には悪いが、予想通りだ。頼んだ俺がこんな事を思うのはよくないだろうが、こんな無理な頼みが通るとは……正直、イメージできない。
だが「もういい」と言うつもりはないし、明も「もうだめだ」とは言ってこない。互いに、かおる祭の舞台同様、抗えないように思えるそれに抗うつもりでいる。
・・・・・・
そして――
・・・・・・
かおる祭前の最後の土日――
この日は校舎を開けてもらって、合唱部は午後いっぱい練習を行った。歌、台詞、舞台の出入り――およそ30分かけて本番と同じ内容を行う。
台詞の間違いに、歯を噛みしめる者が多くなる。あと1週間で直せなければ、本番で台詞が言えない。練習は、これまでより少しピリついてきた。
歌については――正直、微妙だ。
俺が入ったことで乱れていた状況は、改善してきた。とりあえず、各パートとも、止まらずに歌えるようにはなっている。
でも、まだつられる時があるしみんなの音もいいとはいえない。音があと少しだけ上がり切らない、息が足りずフレーズの終わりで声が小さくなる、タイミングがわずかにずれている、全体の声量が足りない――
かつてコンクールで活躍していたメンバーからすれば、見る影もないと思うだろう。
でも……
俺は、別にそれでいいと思う。
そりゃあ、技量は高いほうがいい。歌は上手いほうがいい。
それでも、今の仲間がかつてのメンバーと同じくらいの熱量で本番に臨もうとしているのなら、両者の間に差なんてない。
ただ技量が違うだけ――舞台に立つ姿は、変わらない。
・・・・・・
「キーボードは一応ふたつ持って、必要な物はカゴにまとめて入れて」
「電源コードもちゃんと持った? 忘れたらもう取りには戻れないから。カゴはもう少し整理できないの? 重いから使わない物は置いていって」
陽和と琴音の指示が飛ぶ。
かおる祭2日前、水曜日。
合唱部が練習室として使っている「多目的室401」は、かおる祭当日は別の部活の部展で使われるため、空けることになっている。合唱部は1階東側の「多目的室111・112」へ移動して、そこを最後の練習場所とする。
明日は朝から、各クラス展・部展に割り当てられた部屋の飾りつけ等の作業に入る。だから合唱部はそれまでにこの練習室から撤収しなければならない。
そのため部活を少し早く切り上げて、移動の準備に入っていた。
これからかおる祭まで、この部屋は別の部が使う部屋になる。琴音の言った通り、忘れ物をしたら、もう取りに戻れない。
普段、小物類や楽譜をしまってあるカゴが物であふれかけていたので、いらないものを置いていくことにして愛が整理にあたっていた。
「あ、これ懐かしい。中1の時にかおる祭で歌ったやつだ」
「……愛、それは後にして」
手伝いに回った千尋に監督されながら、愛がカゴの中の古い楽譜を出していく。取り出された楽譜が机に置かれ、次第にうず高く積まれていく。いったい何曲入っているのだろう。
「うん? なにこれ?」
「……愛、後にして」
愛がまた何か見つけて手を止めて――
「――待って」
急に、その声が真剣さを帯びた。
手に持っているのは――なんだ? アルバム? そんなに厚くない。
「どうしたの?」
いぶかしむ琴音の声にも、愛は眉を寄せアルバムを見たまま振り向かない。
「『平成13年』――これ、いつのですか?」
うわ、俺が生まれるよりも前だ……そんな物まで入っていたのか。
愛は周りを見回してから、自分の鞄に駆け寄り、スマホを取り出した。
「ちょっと――」
「琴音さん」
注意しようとした琴音を、千尋が止めた。
「輝さん、お母さん――律さんがこの学校にいたのって、いつですか?」
愛がせわしなく指を走らせながら聞いてくる。
そんなの知るかよ、と言いたいところだが……
知っている――聞いた覚えがある。
昔「2000年問題」というのがあったらしく、その時の話を聞かされていた時に――母さんはそれが学生時代の出来事だと言っていた。
ならその頃、共学化前の「澄香高校」にいたか。あるいはその中等部か。
それなら……
「2000年前後、だと思うよ。具体的な年は……ちょっと分からない」
そう答えながら、俺はそのアルバムが気になって、楽譜が積まれている机に歩み寄った。アルバムは楽譜の脇に無造作に置かれている。
裏返しになっているアルバムを取り上げ、表紙を見ようとひっくり返した。
『平成13年度 合唱コンクール全国大会 澄香高校合唱部』
――!
全国大会――?
それは……すると、このアルバムの中身は――
「平成13年は――2001年です」
愛がスマホから顔を上げ、振り向いて言った。
室内は、静まり返った。
・・・・・・
母さんは学生時代を過ごしたこの学校のことを、俺にたくさん話してくれた。だから俺はそれに憧れて、今この誠澄高校の床を踏むことになった。
だが母さんは肝心なこと――自分の手柄みたいなことは話してくれなかった。だから「このこと」を知ったのはこの学校に入ってからだった。
陽和に合唱部に誘われて、それから琴音に合唱部の現状を知らされて――その時に。
この合唱部は一度だけ、コンクールの全国大会に出られたと。
その輝かしい話には、母さんの影響が多分に含まれていることは疑いない。
「輝さん――」
俺を見てそう言う愛。俺の手には、平成13年のアルバム。
開け、と――
……。
ためらって、開けない。
昔の母さんが、この中にいると思うと……
愛がつかつかと歩いて来て、俺の手からアルバムを抜き取った。
そしてひと思いに、表紙を開く。
何年か、あるいは十何年か開かれていなかったアルバムは、パリッと音を立てて開いた。
すぐ目に飛び込んできたのは、集合写真。これはいったい何人――旧制服のセーラー服を着た女子生徒が30人、あるいは40人くらい並んでいる。
集まってきて写真を見たみんなが、息をのむ。これは、この合唱部の全盛期を記録したアルバムだ。
愛が次々とページをめくる。パリパリと音を立てながら、アルバムは次々とその記憶を俺たちに見せていく。
3分の2ほどめくったところで、何も写真が入っていないページが現れた。
どうやらここで、おしまいらしい。
アルバムは最初のページが集合写真と――おそらく当時の顧問か部活動指導員らしい大人が写った写真だ。
それ以降は当時の部員たちを写したスナップ写真らしい。ひとりで微笑んでいるものから5人でピースサインをしているものまで、たくさん撮られていた。
「輝さん」
愛が顔を上げて言う。
「律さんって、この中の誰ですか?」
・・・・・・
愛から返されたアルバムを、めくっていく。みんながそばに集まって、俺の周りはぎゅうぎゅうになった。
この中の誰か、と言われても……。
人数が、多い……
……。
「……いない」
「そんなはずないです!」
愛が俺の目をぎゅっと見つめる。
そんなふうにされても、答えは変わらない。母さんらしい雰囲気をみせる部員は、写ってない。
母さんは――
ゆるくウェーブがかかった髪、下がり気味の目尻。ゆるやかな雰囲気を漂わせる母さんは――髪型は変わっているかもしれないが、ゆるやかさを醸し出す下がり気味の目尻をもつ部員は、写ってない。
「……」
俺はもう一度、最初のページを開いた。
集合写真――ひとりひとりが小さく写っていて判別しづらいが、どうだろう。
ひとりひとりの顔を、目を、じっくり見ていく。
……。
「いない――」
「いました」
俺と里奈の声が、重なった。
真逆の言葉で。
「ここ――いちばん後ろの、右端の人です」
みんながぐっと額を寄せてきて、俺の周りはますますぎゅうぎゅうになった。
……いや、違う。全然違う。
その部員は上がり気味の目尻に、どこか力のこもった目をしている。自信ありげに上がった口角、肩より下まで伸びたまっすぐな黒い髪は、少しばさついている。他の部員たちが真っすぐに立っている中で、ひとりだけ隣と隙間を開けて、左の半身が前列からはみ出ている。左手をポケットに突っ込んで、立っている。
「なるほど」
愛が急にそう言った。
千尋も無言でうなづく。
「ほんとだー!」
「うん、間違いなさそうだ」
絵里さんと花菜さんも、そう言う。
「あまり変わらないのね」
「ほんと。たぶんスナップ写真、逃げ回って撮らせなかったんだね」
琴音と陽和もそう言って、俺以外の7人の意見が一致してしまった。
でも、母さんに会ったこともないみんなが、どうしてこんな別人を母さんだと……
「あの……どう見ても母さんじゃないんだけど」
俺がそう言うと、愛が苦笑いしながらこちらの目をのぞきこんだ。
「そうですね、この8人の中では輝さんだけ絶対分からないと思います」
愛はぴょんと飛びのいてから歩いて行って、鞄からスマホを取り出して戻って来た。小さな画面を、みんなでのぞく。
愛が画面に表示させたのは、この前行った遊園地で撮った、みんなの集合写真。
俺が後列右端で、なんだか微妙な表情で佇んでいる。
「輝さん、肝心な時にかっこいい顔しないですから」
「いつもはもっときりっとしてて、力のある顔なんですよね。この人の目の感じ、輝さんとおんなじです」
愛と里奈が、そうやって俺を持ち上げる。
……。
愛の手の中にある、遊園地の集合写真――
みんながそれぞれに花のような笑顔を咲かせてピースサインをしている中、俺はひとりだけ右手をポケットに突っ込んでいる。
アルバムの中でこちらを見る、ばさついた黒髪の部員。スマホの中でこちらを見る、微妙な顔の俺。どちらも空気を読まずポケットに手を突っ込んで立っている。
「ほんとだー、目がいっしょ! いい目してるよねー」
絵里さんがなんだか嬉しそうにそう言う。
目……俺が、こんな目をしてる?
これが――母さん?
・・・・・・
「――これ、プリントして明日持ってきます」
愛が急にそう言った。
「1枚だけですけど……いえ、撮った写真全部、持ってきます。このアルバムが合唱部の一番いい時を写したものなら、最後の舞台を担う世代の――私たちの写真も、残したいです」
……。
その写真は――いったいどこに保管されるのだろう。
このアルバムも。
それを聞くことは、できなかった。
「愛、ほどほどにね。今はかおる祭のほうが大事なのだから」
ただ、琴音がそうなだめるだけだった。
・・・・・・
荷物をまとめ、練習室――「多目的室401」を出る。
最後に残った里奈が電気を消した。
ふと、琴音が隣に立った。
「輝、よく見ておいて」
「え――?」
何を言っているか分からず、聞き返す。
「かおる祭が終わったら、その場で解散になるから。荷物を戻しに来る人以外は、ここには戻らずに帰るの。輝がかおる祭までの仲間であるのなら、もうこの部屋には戻ってこられないから」
……そうか。
およそ1ヵ月をみんなと過ごした練習室とは……ここでお別れか。
目の前には、これまで何度も開けた灰色の重い防音のドア。
いま閉じたら、もう俺の前で開くことはない。
「多目的室401」と書かれたプレートを見上げ、少しだけ見つめた。
それから、ドアのレバーを持ったままこちらを見ている里奈に、うなづいてみせる。
里奈がドアを閉める。灰色のドアが、ぴたりと閉じる。
――ガシャッ
レバーが、下ろされた。




