第46話 試される歌唱力
放課後すぐ、練習室へ。
体操を済ませ、後からやって来た岩村先生が発声練習が行って、練習の準備が整った。先週金曜以来、2日開いての練習だ。
岩村先生が、ピアノの向こうから顔を出す。
「輝くん、山口先生から聞いたよ。音取り、3曲全部終わったんだってね」
「はい」
岩村先生が言った通り、先週の山口先生との練習で、ひとまず音取りは終わっている。
ただ先週、山口先生には「たぶん、みんなの足並みを乱しちゃうかな」とも言われてしまっている。
確かに音取りを終えはしたが、かなり急な練習だった。いま改めて考えると、このまま合わせに入るのは……正直、こわい。
「ひと通りは終えましたが、できれば合わせに入る前に――」
そう言う俺を、岩村先生は片手を小さく挙げて止めた。
「うん、その事も山口先生から聞いてるよ。今日はまず復習をして、それから合わせだね」
そして岩村先生は、よく通る声でみんなに指示を出す。
「みんなは先に合わせをしてて。俺は輝くんの練習みるから。今日は後から輝くんも合わせに入るから、それでも大丈夫なように。きちんとやっておいて」
・・・・・・
空いている多目的室に入って、岩村先生とキーボードを置いた机をはさみ向かい合う。
岩村先生の練習は速い。短時間で指示や指摘事項を頭に叩き込んで、覚えなくてはならない。
「それじゃあ輝くん、お手並み拝見といこう」
先生は鼻歌でも歌うようにそう言うが、この言葉は短距離走のスタートのピストルと同じだ。この瞬間から、弾かれたように走らせられる。
「――はい」
急だったとはいえ、ちゃんと音は取ってある。迷わずに――!
・・・・・・
最後の音を歌い切って、しばらくの余韻を張りつめたまま感じ取る――
それから俺は、息を出し切りカラになっていた身体に、大きく息を吸って空気を与えた。胸がすぐそれを押し返して息を吐き出させ、荒い呼吸がその後に続く。
歌いながら酸欠にならない練習は昔やったが、ラクをする練習はしていない。だから歌っている時にしているのは、酸欠にならないギリギリの呼吸だ。
歌う体勢を解き、呼吸が自由になると急に息切れをする。
やっぱり、先週山口先生が言った通りだった。音・リズムの間違いや忘れ、あやふやな箇所……細かな問題点が点在している。それをひとつも見逃してくれない岩村先生が、鋭く細かい指摘と再練習を繰り返す。多少の取り繕いでは、この先生はだませない。
「もう一回、行くよ」
「はい」
肩の力を抜き、軽く息を吸ってから長く息を吐く。次に、目一杯吸い込むための予備動作――
「さん、はい、し――」
同時に、瞬時に必要な空気を吸い切り、音を出し始める。
「はいストップ!」
すぐに止められ、また注意が飛んだ。
・・・・・・
全体のおさらいが終わって、最後に1曲目から3曲目までを通しで歌った。途中で止められることはなく、最後まで間違うことなく歌い切った。
手のひらを、ズボンの横に擦り付ける。うまくできたじゃないか――と言うのなら、この手のひらを見ろ。さっきから不快感を訴えていた両手は、たぶん汗で濡れていた。
「よーし、それじゃあ――」
そう言って、岩村先生が広げていた楽譜を片付けにかかる。
ついに、みんなとの合わせか。
……大丈夫だろうか、今ので。
ぐっと奥歯を噛んだ俺に、先生は言った。
「――最後の1曲、音取りしようか」
「え――?」
俺は思わず、間抜けな声で聞き返した。
・・・・・・
「えっと、音取りはもう――」
「最後の1曲」って……いま歌った3曲以外に、もう歌うものはないはずだ。
俺の顔をちらりと見た先生は、楽譜を片付けながら言う。
「『故郷』、まだやってないでしょ」
「故郷」――それは俺が男声独唱のために用意した曲。
当然それは、俺しか歌わない。だから……
「それは知ってる曲ですし、自分で練習できますから――」
みんなの時間を奪いたくない、そう思って言ったのだが……
何も言わずただこちらを見る岩村先生は、そう思っていないらしい。
恐る恐る、聞いてみる。
「……これに時間を取ってしまって、いいんでしょうか」
「うん。ぜひとも時間を取ってほしいかな」
岩村先生は事も無げに答えた。
先生はぴっと指を1本立てて、言う。
「ひとつの舞台に、大事な曲とそうでない曲があるとは、俺は思わない。ただ、この曲は今度のかおる祭での――合唱部にとっての、大きな見せ場になる曲だ。輝くんにとっても、みんなにとっても、とても大事な曲になる」
先生はくるくると空中を舞わせた指を、とん、とキーボードに着地させた。
「輝くんはこの曲こそ、いちばんうまく歌わないといけないんだ」
……。
「はい――分かりました、お願いします」
ここは素直に、そう答えるほかない。
思えばこれは、みんなの曲をひとつ減らしてまでやらせてもらう曲だ。それも、この歌で合唱部の人数不足まで解決してしまおうなどと、大それたことまで考えている。へたくそな歌は歌えない。
岩村先生と初めて会った日――口止め料としてラーメン屋の食券をもらった時。あの時聞いた話が本当なら、この先生は全国大会で金賞を獲った経験を持つ人だ。その人がやってくれると言うのなら、思いっきりやってもらおう。
「よし、やろうか。輝くん、楽譜ちょうだい。俺持ってないから。歌詞は分かるね? 1番の歌詞で練習しよう」
「はい。……どうぞ」
俺は岩村先生に、1枚だけの楽譜を出して渡す。自分で歌う事だけ考えていたから、先生の分は刷っていなかった。
「これ、2部コピーしといて。俺と山口先生の分で」
「はい、明日までに用意します」
元が1枚だけだ、すぐコピーできる。
これは特に変わったところのない、簡単な歌。
だから練習しやすい。すぐ覚えられて、簡単に歌える。
つまりこれは、特に難しい技術を必要としない歌。
だから、普通の人との差が出にくい。歌おうと思えば、みんなそれなりにうまく歌える。
――レベル差が出にくい、と考えると分かりやすいか。
聴く人をあっと驚かせ、印象に残るよう歌うには……この歌は、難しい。
難しい技術を使わないのなら、やるべきことはひとつ。基礎をひたすら磨いていくんだ。重厚な基礎力で、追い付きようのない差をつける。
「よし、短く分けていこう。1小節目から8小節目まで。本番の条件厳しいから、ひとまず強弱記号は無視して大きな声で」
「はい!」
・・・・・・
「はい、よし。11小節目から12小節目、音が高くなるところ、息使い過ぎ。そこから後が弱くなってる。最後まで均等に出して」
「はい」
この曲でいちばん高いところ、それもメロディーの後ろの方。ここは正直……苦しい。そして、歌っている時に俺自身も感じていたが――「最後まで均等に出して」ということは、呼吸の管理に、失敗している。
――次で直す。
「よーし、練習終わり。合わせに行くよ」
「え――?」
意気込んだ俺を前にして、先生は急に練習を止めてしまった。
そして俺の顔を見た先生は、さらりと言う。
「今日はさわりだけだよ。この先まだ練習の機会はあるから、日数をかけて反復練習していこう」
今日は――?
他に、いつ練習できる日が……? 日数をかけて反復練習って――この曲の練習の時だけ、みんなとの合わせから抜けるのか?
「あの、僕ひとりだけの練習になりますが……そんなに練習の機会はあるでしょうか?」
「あるよん」
岩村先生はそう答えてから、ひとつの楽譜を出して俺に見せた。
それは元から歌う予定でいた、以前コンクールで歌ったという曲の楽譜。話し合いの末に残って、実際にかおる祭で歌うことに決まったやつだ。
先生はそれをひらひら振りながら言う。
「みんながこれを練習する時は、輝くん歌えないでしょ。その間、輝くんは『故郷』の練習ができる」
あ、そうか……
その歌のことが、全然頭になかった。
複雑な女声3部合唱のその曲には俺が入る余地がない。だから俺は元から歌わないことに決まっている。するとその曲の練習の時には、歌わない俺は突っ立っているだけになる。
その時に、「故郷」を練習すればちょうどいい――か。
「それじゃ、そういうことで――」
岩村先生はそう言って、「故郷」の楽譜を俺に返してきた。
「行こうか、合わせ」
・・・・・・
そして――俺にとって初めての合わせは、散々な結果に終わった。
「やっぱりねー。こうなると思った」
軽くそう言う岩村先生だったが、室内には暗いような気まずいような、嫌な空気が漂っている。
俺はいつも通りに歌った。曲は今回のかおる祭で初めて歌うものだったが、歌い方はこれまで通りに、きちんと全力を出した。
しかし――俺なんかが言っていいのか分からないが――この合唱部の歌唱力は、全体的に俺よりも劣っていた。
今まではその状態でバランスを保てていたらしいが、今日になって急に入ってきた俺が、主旋律を歌った。それも大声量で。
俺にとってのいつもの声量は、この合唱部内ではだいぶ大きかった。
俺自身は大丈夫。主旋律を歌う他の部員がいたから、そちらの音が聞けて、音取りの時よりラクに済んだ。
しかし主旋律以外は、声量の大きいこちらに何度もつられた。主旋律にかき消されるように、自身の音を見失った。特に立ち位置の関係上、俺のすぐ隣に立つアルトはだいぶつらそうだった。
練習は頻繁に止まり、ぎくしゃくとして思うように進まなかった。
岩村先生が、みんなに向かって言う。
「輝くんの声が大きいからなんだけど――『抑えて』とは言えないね。ちゃんと楽譜通りに強弱はついている」
ちらりと横目で見ると、みな、それにうなづいている。
「主旋律以外のパートは、自分の音をしっかり覚えて。つられないように。主旋律が大きくなったから、そのぶん他のパートも声を出して」
それは……
言うのは簡単、だけれども……
岩村先生は少し考えて、ためらうように言う。
「これはあんまりよくないけど……」
そう言ってから、ぱっとみんなを見て、はっきりと言った。
「今回は、コンクールじゃなくて文化祭だ。細かい技術を気にするより、明るく大きな声を出すようにしよう。口はいつもより少し横に開けてみて。まず歌がお客さんに聞こえないと、意味ないからね」
・・・・・・
こうして、初めての合わせは終わった。




