第37話 凡庸な生徒
翌日、木曜日――
昼休み、職員室から戻ってきた俺は、少し急ぎながら自分の席に向かった。
クラスのみんなはもう弁当を食べ終えて、おしゃべりに興じている。
「お、輝。どこ行ってたんだ? 弁当も食べずに」
隣の席にいた明が聞いてきた。
俺は右手に持ってきた細長い水色の紙を机に置いて、鞄から弁当箱を引っ張り出す。
「ちょっと職員室に、ね」
そう答えながらふたを開けて、急いで弁当を食べ始める。思ったより交渉に時間がかかった。早く昼食を済ませないと。
「なんだ? まーた追試か?」
「違うよ、小テストはちゃんとやってる。そうじゃなくて――」
そう言いかけたところで、たたた、と足音がして、陽和が身軽そうに机の間を抜けてやって来た。
「輝、今日どうしたの? 今からお弁当?」
俺は少し陽和の顔を見てから、箸を口に運ぶ。
「ああ、ちょっと、ほうひははっへへ」
「こら、食べながらしゃべらない!」
ちょっと笑いながら叱る陽和の声を聞きながら、弁当箱のふたに箸を置く。そっと手を伸ばし、机の上に置いていた水色の紙をするりと取って机の中に滑り込ませた。
「ちょっと用事があってね、急ぎだったから」
「用事って?」
……。
「いや……英語の小テスト、また落ちちゃって。合唱部に迷惑かけたくないから、追試はなんとか明日の昼休みにしてくださいって、頼み込んできたんだよ」
それを聞いた陽和は、俺に向かって、少しむっとしてみせた。
「えー、輝。また?」
「大丈夫、必ず一発合格します、って言ったら『今回限りですよ』って。うまくいったよ」
陽和はちょっと大げさに、両手を腰に当てる。
「もう。そういうのだめだよ。輝も今は部員と同じなんだから、あんまり続くようなら私、部長として注意するよ」
「ごめんマジで。……それから、ついでにもうひとつ」
そう言いつつ、教室内の時計を見る。
「ごめん、陽和。今日のクラス委員会、出られそうにない」
陽和はぱっと振り返り、時計を見る。今日は臨時のクラス委員会が、昼休みに予定されている。そしてうちのクラスのクラス委員は、陽和と俺――
「あ――」
陽和が声を上げた。
今日も俺は委員会をすっぽかすことが確定だ。陽和に行ってもらおう。
「てーるー、また私に――っ!」
陽和は両手をぐっと握りながらそう言って、慌てて立ち去る。
教室を出かかったところで振り返り――
「後でおぼえてろー!」
ああ、陽和はやさしい。ありがとう、今回も「おぼえてろ」くらいで済ませてくれて。今日一日くらいは忘れない。
……ほんと、勝手でごめん。でも今日の用事は、できれば明日に回したくなかった。
「お前……本当にクラス委員か?」
明があからさまにあきれた様子でそう言う。
「委員決めで即座に立候補したのを見た時は、おおすげえやつだなと思ったけど、お前何もしてないじゃん」
俺はまた箸を取って昼食の続きに入る。
箸を口に運びながら、明の言葉にそっけなく答えた。
「やってみると意外とラクなんだ、クラス委員」
「そりゃ桜井がお前のツケを払ってるからだろ」
そうかもしれない。
――それから明は、声色を変えた。
「それで、桜井に嘘ついてまで隠したやつは何? 小テストは落ちてないんだろ」
俺はまた箸を弁当箱のふたの上に置く。
机の中から、細長い水色の紙を取り出す。2枚重なったそれを少しずらして、明の目の前でひらひらと振ってみせた。
明は、すぐにそれの正体に気付いた。
「へー、かおる祭のチケット。水色は――家族用だったな。そいつをもらいに職員室へ?」
そう言ってから明は、少し考えた。
「ああ、そういえば輝はチケット申請してなかったな」
その通りだ。かおる祭の一般公開用の招待チケットを、俺は申請していなかった。わざわざ父さんと母さんを呼ぶ必要はないだろう、と思って。
「あーあ、友人用チケットじゃないのが悲しいなあ。お前友達いないの?」
「余計なお世話」
明の無礼な発言に、俺はまた箸を取ってまた昼食の続きを始めた。こいつめ、もう真面目に話さんぞ。
そんな俺の態度をよそに、明は話を続ける。
「で、合唱部のステージ発表を見せる気になって、いま交渉してきたわけか。期限は一昨日までだったろ、よくもらえたな」
そう。ただ付け加えるなら、母さんに「いま」合唱部を、その最後かもしれないステージ発表を見させたいと思ってのことだ。
すでに申請の期限を2日過ぎていた。無理を言うならできるだけ早く、と思って今日先生に掛け合ってきたが、なんとか申請は受け入れてもらえた。
「でも、どうして桜井に教えなかったわけ?」
「……うちの母さんはみんなが言う『伝説の先輩』だよ? 普通の生徒は名前までは知らないみたいだけど、合唱部じゃ、もう知られてる」
そう言って、明に片方のチケットを見せる。
チケット所持者の名前の欄には――
【 海 野 律 】
20年以上語り継がれる伝説の先輩の、その名前が書かれている。
「こんなの見せたら、大騒ぎになる。本番、必要以上に緊張するだろ」
「ああ、なるほど――」
伝説の先輩、その本人が客席にいると知ったら、緊張しすぎるか頑張りすぎて空回りするか――まず平静ではいられないだろう。
合唱をやるのというのは繊細な行為だ。その日の気分の良し悪しでさえ音が変わる。緊張も、力の入りすぎも、アウトだ。
「それに――もし他の生徒にも知られたら、文化祭どころじゃなくなる」
合唱部以外の生徒にしても、母さんの名前を誰も知っていないとは、断言できない。
実際、今の合唱部員たちは知っている。母さんの時代を知っていた卒業生が、その名を伝えたからだ。
それにさっき、「海野律」の名でチケットを申請した時、白髪交じりの担任の先生は妙に渋い顔をした。もしかしたら、当時からこの学校に勤めていて、その名を覚えているのかもしれない。
母さんがこの学校で作った「伝説」は枚挙に暇がない。どんな学生時代を送ったのか知らないが、学校中に様々なエピソードをまき散らしていったのだ。
どこか別の部活が語り継いでいる逸話もあるらしい。母さんはどうやら合唱部以外にも顔を突っ込んでいたらしいのだ。探せばいくらでも出てくるだろう。
だから――どこから母さんの名前が漏れるか分からない。合唱部のように昔の卒業生が来て語っていく可能性は普通にある。
それに俺の母さんのことを陽和は誰にも言っていないらしいが、他の合唱部員はもう友達に話しているかもしれない。
「海野律」という名前が、もう一度この学校に芽を出しかけている。本人の意思とは関係なく。
そしてこの学校の生徒の中には、「伝説の先輩」に妙なあこがれを持っている者も少なくない。
チケットに書かれた【海野律】の文字――もし誰かひとりでもその名を知っていて、かつこのチケットの存在を知ったら。
「伝説の先輩」がかおる祭に来る――その噂は、おそらく数日で全校に知れ渡る。
今は黙っている陽和も、さすがに俺がチケットを渡したと知ったら他の部員には話してしまうだろう。
部員は陽和の他に6人――誰も友達にに話さないとは、思えない。特に里奈なんかは、思わず誰かに言ってしまうだろう。
そもそも、母さんのことを誰にも話すなだなんて、言ってはいないのだし。
「伝説の先輩」が、今年のかおる祭にやって来る――そんな噂が立ったら、もう文化祭をやるどころの騒ぎじゃなくなるだろう。
いま俺の手にある水色のチケットは、ただの紙切れかもしれないし、あるいは巨大な爆弾かもしれない。
【海野律】と書かれた家族用チケット――こいつは陽和にさえ見せられない代物だ。
「――なるほどね、それで桜井には伏せた、と」
明が納得したようにそう言う。
あの時は少し焦った。チケットは裏返しに置いていたが、もし陽和がかおる祭のチケットだと気付いていたら……
たとえ裏返しでも陽和には分かるはずだ。その家族用チケットは俺の母さんに渡すものだと。
「でもさ、俺に教えた時点でもうアウトじゃね?」
そう言う明。
でもさ――
「お前、隠したってどうせ勘付いて白状させるだろう」
「いやー、それほどでも」
どうして嬉しそうにするんだ。
「ほめてない。……言うなよ、誰にも」
「ああ、それは大丈夫。それよりも――本当に、来るのか?」
……。
「分からないな」
母さんがこのチケットを見て、なんと言うか分からない。
「母さんがなんて言うか、どう動くか――正直、分からないことがあるから」
もう15年ちょいの付き合いなのに。
「……『伝説の先輩』と『凡庸な生徒』じゃ、頭の中が違うのかな」
少し投げやりに、そう言った。
そんな俺を、明は「しょうがないやつだ」とでも言いたげに見る。
「お前が『凡庸な生徒』?」
「……そうだろ?」
明は苦笑いした。
「お前、もう合唱部にだいぶ暴風起こしただろうに。ちょっと器楽部まで巻き込んで。お前的には、あれで『凡庸』か」
……「凡庸」でないとしても、「特別」でもない。
そんな俺の思いも知らずに、明はにやりと笑う。
「今年のかおる祭――不発に終わるか、その逆か」
不発の、「逆」……か。
「でかいことをやりそうなやつは、そう多くない。そして輝、お前はその中に入ってるぞ。俺から見れば」
……あくまで、お前から見れば、だろ。
俺は別に――
「ああ、そんな事より、輝」
「なんだよ」
明はまた、あきれた表情をした。
「早く飯食え、昼休み終わるぞ」
「――っ!」




