第35話 わからないの?
下校時間までは、まだ少し時間があった。
下校前には先生方が校内を見回る。学校外周の森は歩くとだいぶ時間がかかるから、下校時刻より少し早め――つまりちょうど今頃、巡回するはずだ。
先生に見つかって追い出されないように、それから他の合唱部員にも見つからないように、俺は陽和と連れ立って教室へ向かった。
誰も残っていない教室に入って、ひとまず自分の席に座る。陽和は窓の方を向いて、俺の机に軽く腰をかけた。
「輝――」
やさしい声で、呼びかけられる。
「ありがと。私のこと、覚えててくれて」
「……」
ちゃんと覚えていた、などと胸を張っては言えない。今朝琴音に指摘されなかったら、今日も放ったらかしのまま帰っていたはず。
「――いいんだよ、輝」
少しうつむいた俺に、声をかけてくれる陽和。顔を上げると、陽和はすぐ目の前。やさしい眼差しで、俺を見下ろしている。
「こないだは、あんな事があったんだから。輝は悪くないよ」
陽和はそう言ってから、窓の外を見つめた。
「……でも」
こちらを向かない陽和。
「私――ちょっとずるい事、したかな」
その横顔は――なんだか少し後悔の色が混じって見えた。
「ずるい事」ってなんだろう――そう戸惑う俺に、陽和は少し困ったような顔を向ける。
「私ね、今日輝が追いかけてきてくれたから、ちょっと舞い上がっちゃって――思わず『行く』なんて言っちゃった」
だんだん、その声は小さくなった。
「里奈――今頃、さみしい思いしてるんだろうね」
夕陽に照らされる、陽和の苦い表情。
「私は先輩なんだから――あの時は、『里奈のところに戻ってあげて』って言わなきゃいけなかったのかな」
いや、里奈を置いてきてしまったのは――
「――だから、輝。お願い」
――?
「明日は里奈に、埋め合わせ――してあげて。私じゃ、里奈には何もしてあげられないから」
……うん。
ちゃんと、してあげなければ。きっちりと、埋め合わせを。
里奈のおしゃべり――今日の分と、明日の分。どっちも明日、まとめて付き合ってあげよう。
中2の里奈には、少し長い待ちぼうになるけれど。
「……」
「……」
『6時50分になりました。まもなく下校時刻です。校内に残っている生徒は、速やかに下校してください』
――!
ぱっと天井を見る陽和と、急な放送にびっくりした俺。
「さ、輝。行こ」
そう言って、陽和は机から腰を離して立った。
・・・・・・
校舎を出てから、校門へ向かわずに曲がって、森の入り口へ。
俺の左に立った陽和は少し振り返ってから、すっと右手を俺に向け差し出す。
ちょっと、ためらったが――そっと、陽和の手を握った。ひんやりと、冷たい手。細い指の感触が伝わってくる。
陽和を転ばせないように、手を引いてゆっくり歩いた。心なしか慣れたように歩む陽和は、邪魔な木の根に一度も足を取られなかった。
どの辺まで行こうか――そう思いながら歩いていた俺を、陽和がつないだ手で引き止める。
「輝、ここだよ」
ここ――?
ここって、この前過ごしたベンチ?
校庭の方を見ると、木々の間から見える校庭の様子は確かに記憶と同じだ。
陽和はすとんとベンチに座って、俺の手をくいっと引く。大人しくそれに従って、陽和の隣に座った。
・・・・・・
木々に覆われ、薄暗い森の中――
「ねえ、輝」
陽和は前を向いたまま言った。
「私ね、最近ちょっと不安なんだ。なんだか、輝が離れて行っちゃう気がして」
「離れて?」
「うん」
それから、少しいじけたような声を出す。
「最初は、合唱部員で輝と仲が良かったのは私だけだったでしょ。それが今は、輝は『みんなと』仲良くなっているんだもん」
そう言う陽和の声は、少しずつ小さくなった。
「『みんな』じゃないよ、まだ顔しか知らない人もいるし」
俺はそう言ったが、陽和は首を振る。
「今日、高3の先輩たちと話したけどね。早く輝と話してみたいな、って言ってた。名前覚えてもらいたいなー、って。『後輩たちのお熱が冷めたら声かけようかな』だって」
「なに? 『お熱』って」
聞き返した俺に、陽和は少し眉を寄せた顔を向ける。
「わからないの――?」
「――?」
「里奈、あんなにおしゃべりしてたじゃない」
それは、そうだけど――
「あれは里奈の性格でしょ?」
その言葉を聞いているのかいないのか、陽和は前を向いて、独り言をつぶやくように語った。
「里奈はね、とても素直ないい子で、先輩の言うことはよく聞いてくれて、落ち着いていて――少しだけ、人見知りな子」
え――?
そんなことはないだろう。
先輩の言うことにむっとして口をとがらせ、出会ったばかりの俺に、おしゃべりしたくてたまらない。
可愛い小動物みたいな、元気な子だ。
「みんな分かってるよ、里奈があんなふうに変わったわけ。分かってないのは、輝と――あとは、里奈自身かな」
――?
「……教えないよ? 私は。ずるい先輩だから」
陽和は口をとがらせ、そう言った。
「それから――」
陽和は少し、宙を見つめる。
「愛だって――輝と会ってから、いつもと違うんだよ」
「楽譜持ってっちゃったこと?」
俺の楽譜は、愛に確保されたままだ。
「うん、それ」
陽和はまたつぶやくように言う。
「愛は元々明るくて、ちょっと悪戯っ気があって、一緒にいて楽しい子。でも何かする時は、ちゃんと結果を考えてからする。いたずらはするけど、言うことはちゃんと聞くんだよ」
「ああ――楽譜盗ってったの、いたずらみたいなものか」
俺の言葉に、陽和はまた首を振る。
「私、言ったよ。『輝に楽譜返してあげて』って。いつも通りの愛なら、ちゃんと言うことを聞いて返すはず。なのに返さなかったから――みんなびっくりしてるんだよ」
そうだろうか――?
頑なに楽譜を返さない理由は、ちゃんとある。
「楽譜を返してくれないのって、俺がまた出て行かないように、あえてやってるんじゃない? まだ信用されてないんだよ、俺」
そう言ったが、陽和は納得しなかった。
「それでも――先輩である私の言うことを聞かなかったのは、今までなかった。愛、輝の楽譜をずっと大事そうに抱いて持ってるよ」
大事そうに――、か。
「輝、愛のことも、わからない――?」
「へ――?」
また少し眉を寄せて、こちらを見る陽和。
「ちょっと分かりにくいけど――たぶん里奈と同じだよ、愛も」
里奈と同じ――
何が? どこがだ?
そう考えていた俺に、陽和は消えそうな声で言う。
「……琴音に、何て言ったの?」
「琴音――?」
そう言った俺に、少しむっとする陽和。
「今日、輝が部活に来る前に言ってたよ。『輝はまだ来ないの? ちょっと遅いよ』って」
「それは俺が当番だったから――」
「そうじゃなくて」
陽和は首を振って言う。
「昨日までは『海野さん』って言ってた」
それは、今朝ふたりで話して、ちゃんと自己紹介してくれたから――
ここの合唱部は名前で呼び合うんだから、琴音が俺を輝と呼ぶのは自然なこと。
――そのはず、だろ?
「琴音はね、ひたすら真面目で、みんなの事をいちばん大切に思っていて、ちょっと厳しい。部活でなら割とゆったりしてるけど、普段はすごく堅いから。すごい人見知り」
すごい人見知り――
まあ、そうだろう。今朝会った時の重い沈黙は、だいぶきつかった。
陽和は俺を見ないで続ける。
「輝は分かってないだろうけど――あの琴音が簡単に、しかも男子を下の名前で呼ぶなんてありえない」
そう言って少し、その顔に陰りがさした。
「その時の、琴音の表情――」
……言いかけた言葉を、陽和は口をつぐんで最後まで言わなかった。
「なんだか――輝はみんなと仲良くなって、みんなに連れられて、離れて行っちゃいそうだよ」
そう言って、少し下を向く。
「……輝、正直に答えて」
うなづく俺を、陽和は見ない。
「いま輝が知ってる――輝と名前で呼び合えてる子たち。その子たちのこと……」
少し間があって――
「輝は、どう思ってるの――?」




