第34話 私を忘れないで
陽和は結局、昼休みが終わる3分前に戻ってきた。
話しかける時間は、なかった――
そして、放課後。
こんな日に限って、俺は当番だった。
俺が朝ギリギリに来て当番の仕事を全部押し付けたので、もう一人の当番は文句たらたらだった。その埋め合わせで、当番日誌の記入と提出は俺がひとりでやることになり、大急ぎで書きなぐった日誌を提出して戻って来た時には、陽和の姿はもうなかった。
また、声をかけられなかった――
いや大丈夫、まだ大丈夫だ。
部活が終わった後、みんなはすぐには帰らない。陽和もそうだ。その時に声をかけられる。
大丈夫だ。
鞄を勢いよく背負って更衣室へ飛び込み、急いで着替えて飛び出して、西階段を駆け上がった。
・・・・・・
練習室へ入ると、もう机と椅子は半分くらい片づけられていた。室内を見渡すと向こうに陽和の姿が見え、ちょうど振り返ったその視線が、こちらの視線をとらえた。
しかし、俺が気の利いた笑顔を見せる間もなく――
「輝さーん!」
元気のいい声がして、たたた、と里奈が駆け寄ってきた。
すぐ目の前で、とん、と立ち止まった里奈は無邪気な笑顔を目一杯に咲かせる。
「こんにちは。ちょっと遅かったですね、何かあったんですか?」
「あ――」
笑顔いっぱいの里奈から視線を移すと、陽和はもうこちらを見ていなかった。
「――? 輝さん?」
里奈がちょっと首を傾げながら、俺の目をのぞくように見上げている。
「あ……うん、今日当番だったから。日誌出さなきゃいけなくて」
「えー、もうひとりの人がやってくれればいいのに。輝さんは忙しいんですから」
そう言って、むーと口をとがらせる。
「里奈、手を動かして」
琴音の注意の声が飛ぶ。
「はい、すみません」
振り返ってそう答えた里奈はまた俺を見て、とびきりの笑顔を見せる。
「輝さん、そっちに鞄置いてください。今日も一緒にやりましょう!」
「うん……」
言われるがままに鞄を置いて、まとわりついてくる里奈に、手取り足取り部活前の片付けを教えてもらった。
陽和の姿を目で追おうとする俺に、里奈は昨日よりもきらきらした笑顔をみせながら何度も話しかけてきた。
陽和とはあれから、視線が合うことはなかった。
・・・・・・
部活が始まり、俺はこの合唱部に参加してから初めての体操に入った。
未経験の俺に他の部員が教えてくれる形になって、体操は遅れ気味で進んだため、指導担当の山口先生が体操が終わる前に来てしまった。
山口先生には椅子を出して待ってもらい、残りの体操は少し焦り気味で済まされた。
それから山口先生がピアノの向こうに立ち、発声練習が始まった。
ここは合唱部――今は練習中。
陽和との約束は何とかしなければならないが、今は私事など考えてはいけない。精神の状態は、そのまま歌声に出てしまう。
足を肩幅に開き、前後は水平。左右の足に均等に重量を配分して、腹より下をどっしりと、胸より上は力を入れず乗せるだけに。
まっすぐに立って――さあ。
・・・・・・
発声練習が終わった。
声は思い通りに出ている。身体は意のままに動いてくれている。心も程良く落ち着いて、音程に悪影響を及ぼすおそれはない。いい状態で、練習に入れる。
山口先生は「いい機会だし、今日もパート練習を丁寧にしておいて。この先は、もうパート練習する暇はなくなるから」と言って各パートを散らばらせた。
俺以外の7人が、各々部屋を出て行く。それを横目で見て、楽譜を持ちピアノの向こうの先生と向き合った。
山口先生は「うん、大丈夫そうだね」と言いつつ音取りを進めていく。注意されることはあまりなく、音もリズムもよく頭に入ってきた。
・・・・・・
1曲目の音取りが終わり、2曲目へ。
曲の半分より先へ進んだところで、各パートが次々と戻ってきた。
今日の練習はこれで終わり――そんなに時間が経ったようには感じなかった。
俺を含め8人で並ぶ。陽和が俺の右隣りに来て、楽譜入りのクリアファイルを床に置き、出欠確認用のバインダーを持って前に出て行った。
昨日と同じように、名前を呼ばれた部員が返事をしていく。陽和は名前を呼んでから、さっと相手に視線を向け返事を聞く。
陽和はバインダーに視線を落として、最後に俺の名前を呼んだ。
「海野輝」
「はい」
陽和は視線を落としたまま、短くペンを走らせた。
・・・・・・
「輝さーん!」
そして、また。
元気に里奈が駆け寄ってくる。可愛い小動物みたいだ。
「昨日は机の片付け、やりましたよね。今日はあっちの道具の片付け、やりましょう。ほら」
そう言う里奈に連れられて、今日は道具の片付けを教えてもらう。
戯れるように、おしゃべりをしながら作業を進める。たぶん里奈は、俺が昨日言った「また明日、今日みたいに話そうよ。また明日があるんだから」という言葉を覚えていて、昨日のおしゃべりの続きをしているんだろう。
俺と里奈の手が触れて、意外に熱いその温度を感じた。
「わ、輝さん手冷たい!」
里奈には冷たかったらしい。
「わー、ひんやりしてます」
そう言って里奈は無造作に俺の手を撫でまわした。
「里奈、手を動かして」
琴音から注意が飛ぶ。
「はい」
そう答えてから、里奈はむっと口をとがらせ、俺の顔を見上げる。
「……やってますよ、ね」
小声で、そう言った。
・・・・・・
片付けが終わり、制服に着替えるため、みんなで更衣室へ移動する。
里奈がまとわりついて質問攻めをしてくるのも、男子更衣室前までの見送りも、昨日と同じ。
里奈は、おそらく昨日校門で別れてからひと晩待ち望んでいた、「昨日と同じ今日」を楽しんでいるんだろう。
たたた、と立ち去る里奈の背中を見てから、ひとりで制服に着替える。男子更衣室の前でもおしゃべりが続いたから、着替えは少し遅れ気味になった。
着替えを終えて、練習室に戻る時――女子更衣室の前で。今頃里奈は、どたばたと急いで着替えてるんだろうなと思って、ちょっと笑ってしまった。
練習室のドアを開くと、中ではみんなが思い思いに、それぞれの時間を過ごしていた。
放課後のそのわずかな時間を、やさしい仲間どうしで過ごす和やかな時。
教室とは全然違う、居心地のいい空間。ここで根を生やしてしまいそうだ――
そう思いながら立っていると、琴音が妙な視線を向けてきているのに気付いた。
なんだ――?
笑顔じゃない。でも怒ってもいない――どこか不満そうで、なにか訴えかけているよう。
少し離れた所で、上級生らしい2人と話している陽和へ、何度も視線を送っている。なにか、口だけ動かして言っている。
直接言ってくれればいいのに――何と言ってる?
……。
「や・く・そ・く」
・・・・・・
やくそく――?
約束――?
約束……!
――っ! この、ばかもの!
陽和との約束、忘れてた!
練習に集中してて――なんて言い訳が、通るわけがない。
まずい、まずい。もう時間がない。ここで声をかけないと、今日はもう会えない。
陽和は他の部員と話しているが、多少無理にでも、少しだけ割り込んで――
――ガシャッ!
勢いよくドアのレバーが上がって、少し飛び上がりそうになる。
「輝さん! お待たせしました」
開いたドアから転がり込んできた里奈が、元気にそう言った。
「ほら輝さん、ここ座ってください」
勢いよくそう言って、すとんと座る里奈。
「輝さん? ここ、どうぞ」
里奈は自分の目の前を手で示す。無邪気な瞳を、こちらに向けながら――
きらきらした眼で見上げる里奈に促されるまま、ついその前に座ってしまった。
里奈は昨日と同じように、おしゃべりの続きを始める。堰を切ったように始まったおしゃべりは、すぐ止まらなくなった。
ちょっとだけ待ってもらって、陽和のところへ行ってきたい。ちょっとだけ――
「あの、里奈――」
「そうそう昨日! 輝さん私に『早く寝てね』って。私もう小学生じゃないんですから。中2ですよ、中2」
「えと、ちょっと――」
「どうしてみんな私を小学生みたいに――体小さいからって、もう」
止める隙もなく続く里奈のおしゃべり。どこかで、一旦切らないと。
やさしく言っても、この勢いに負けてしまう。
でも、強く押し止めるのは――
こんなにも、きらきらとおしゃべりする里奈を――
――そんな事を考えているうちに、事態は動いてしまった。
「琴音――」
陽和の声が、聞こえた。
「私先に帰るから、鍵返すのお願いしていい?」
「ええ、任せて」
まずい――陽和が行ってしまう。
「あ……」
「輝さんだって! 中2の時に小学生扱いされたら嫌でしょ、そうでしょ?」
一瞬陽和を目で追ったが、里奈のおしゃべりはそれを許さない。
――ガシャッ
ドアのレバーを、上げる音――
「失礼しました、さようなら」
帰りの挨拶――陽和の声。
「ちょっと――」
「輝さんって中2の時どんな感じだったんですか? もし私と同じクラスだったらきっと仲良くなれますよね」
――ガシャッ
レバーが下げられる音……
練習室を出て、廊下の先へ――行ってしまう。
もうだめだ。無理にでも話を切るしかない。
「ごめん里奈、そろそろ帰るから――」
「えー、昨日はもっと遅かったじゃないですか」
里奈は口をとがらせて、むっとする。
邪魔しないでくれ――
そんなふうに思うことは、できない。
それはそうだろう。だって――
『まだ話し足りないから――だから今日はもう帰ろう』
『また明日、今日みたいに話そうよ』
昨日、里奈にそんな事を言ったのは俺だ。
でも――
もう、仕方がない。
「輝さん、今日も昨日みたいに――」
「ごめん、里奈!」
強く、言葉を遮った。
「ちょっと、行くとこがあって!」
鞄をつかみ、勢いよく背負う。
「あ――」
里奈の小さな声を背に、ドアに向かって、レバーをつかむ。
――ガシャッ
「失礼しました、さようなら!」
そう言って、勢いよくドアを閉め――
――ガシャッ
レバーを下ろした。
・・・・・・
振り返った先には、誰もいなかった。
ただまっすぐに、無機質な廊下がずっと先まで伸びている。
陽和はどこへ行った?
ここは校舎の西の端。階段は2ヶ所――こちら側の西階段と、向こう側の東階段。
東階段へは距離があるが、もし走っていったならもう着いた後かもしれない。
それに、帰らずにどこか教室か多目的室に入った可能性もある。ひと部屋ずつ、見て回るか――?
……無理、だ。
もし陽和が校内に留まらず階段を下りていたら、俺が各部屋を見て回る間に、学校を出て行ってしまう。
逆に校内のどこかにいたら――たくさん部屋がある校舎内で、下校時間までに見つけ出すことは不可能だ。
つまり――
今日中にはもう、出会えない。
……失敗だった。
無理に里奈のおしゃべりを遮るなら、もっと早くすべきだった。陽和が室内にいるうちなら、確実に声をかけられたはずなのに。
ああ、そうだ。
先に声さえかけておけば――
陽和に下校時間まで待ってもらって、その間に里奈とおしゃべりしながら校門まで行って見送って、それからこっそり陽和とまた会って、ふたりで森の中へ入る。
――それができたじゃないか。
灰色のドアの前で、俺は立ち尽くした。
「……」
ぐっと拳を握って――
・・・・・・
「陽和――っ!」
見覚えのある背中に、呼びかけた。
振り返った陽和は、驚いたような表情で立ち止まる。
他に誰もいない、階段の途中――
陽和の前までたどり着いて、手すりにつかまり、荒く息をする。
激しい息切れに、声が出せない。
それでも、切れ切れに――
「陽和……ごめ、ん」
――と、言った。
それからだんだん息がらくになってきて、顔を上げた。信じられない、という陽和の顔が見える。
「ごめん、約束、守らなくて」
返答は、ない。
「今日これから――時間、ある?」
さすがに、無理があるか――
「よかったら、今日――いっしょに行かない?」
だいぶ遅かった、その言葉――
表情を変えない陽和に、「もうだめ」と言われている気がした。
が――
陽和はゆっくりと、それから急に、花が咲くように笑顔になった。
そのまま泣きそうなくらいの、笑顔に。
「うん……うん、行く!」
・・・・・・
灰色のドアの前で立ち尽くした俺は、ぐっと拳を握って、賭けに出た。
いちばん近い、西階段を下りている――
その一点に賭けて、俺は西階段を駆け下りた。
そして、2階を過ぎた先で、ついに陽和の背中を見つけられた。




