第26話 対話
その楽譜は、たった紙1枚。
誰にも断りなく印刷したその1枚は、俺の勝手さの証。
それがここで、合唱部員に見つかるなんて――
ツインテールの部員は、じっと俺の目をのぞき込む。どうして? と、言外に問いかけてくる。
「……」
まあ……別にいいか。どうせもう会うことのない相手だし。
俺は一旦目をそらして、ため息をついて、それから言った。
「それは俺がひとりで歌おうと思って印刷したやつ。ひとりきりで、ね」
「輝さんはひとりきりじゃありません。私がいますから」
里奈がちょっと的外れな食いつき方をしてきた。
そういう意味じゃなくて……
「違うんだ――」
「違わないです」
里奈は俺の言葉を遮って、きっぱりと言い切った。
「私には、合唱部なんてどうでもいいんです」
――空気は一気に凍り付いた。
「輝さんは、私に合唱のことをたくさん教えてくれました。私は先週のあの時だけで、今まで1年分以上のことを輝さんから教わったんです。そうでしょう?」
里奈はそう言って他の3人を見る。
「私は歌が好きじゃないのに合唱部に居続けていることを、悪い事だとずっと思ってきました。1年間、ずっとです」
その言葉に、何も言えない3人。
「その私に、『合唱部は君を必要としている』って言ってくれたのは輝さんでした」
……。
「今まで、合唱部で誰も言ってくれなかったことでした」
「……」
「……」
「……」
「だから私にとっては、それを言ってくれた輝さんがいる所が、私の合唱部です。輝さんがいないなら、私はこの学校の合唱部を抜けます。輝さんに置いていかれたくないですから」
おい、何を言い出すんだ、それじゃあ――
俺は思わず言った。
「待って里奈。それじゃあ俺が君を合唱部に帰らせた意味がないじゃないか」
それを聞いた里奈は俺の顔を見て――少し、寂しそうに笑った。
「輝さん、その合唱部はどうせ潰れます」
その冷ややかな言葉に、空気はさらに凍った。
「だって――輝さんには、『合唱部の廃部を避けられる』考えがあったんでしょう?」
「……」
その言葉に俺は目線を外したが、里奈は構わず続けた。
「その輝さんを追い出してしまった合唱部には、もう廃部を回避する考えのある人はいません。もう、潰れるしかないんです」
「……」
とりあえず……俺の「考え」は置いておくとしても――
確かに、合唱部の廃部は既に決まっている。「どうせ潰れる」という里奈の言葉は正しい。
里奈がせっかく帰ることができた合唱部は、今年中に解散してなくなる。
小柄な里奈は、3人を見上げてまっすぐに顔を見る。
「それなら私は、輝さんと合唱部やります。コンクールに出られなくても、文化祭に出られなくても――輝さんと歌う方が楽しいと思います」
……俺と?
まだ一度も、一緒に歌ったことがないじゃないか。
里奈の顔を見ると、まだ幼げな眼が俺の視線を捉える。
ここに並ぶ4人の中で、ひとりだけ優しい笑顔をみせている。
「どこかの部屋を使えば、場所は確保できます。あとは……できるだけ安いキーボード、頑張って買いましょう。そうすれば――」
……。
「そうすれば、輝さんが卒業するまでは、そこが私たちの合唱部になりますから」
やや痛々しさが混じったその言葉――
出まかせ……には思えない。きっと、思っていることを素直に言葉にしただけ。
そして――それは確かに、里奈にとって救いになるのかもしれない。その言葉の通りにすれば、少なくとも里奈にとっては、合唱部は存続することになる。
もっとも、俺がその気を起こす事が前提だが。
「……」
里奈は、笑顔を浮かべながら俺の顔を見ている。
……。
俺は――合唱部員の面倒を見ようなんて思えない。
でも……この、やる気と未来にあふれているひとりの歌い手を、合唱部の廃部に巻き込んで失意にさらすのを、見過ごすのも嫌だ。
俺は――今までとは違う学生生活を楽しみたくて、あえてこの学校の合唱部には入らなかった。
里奈とふたりで非公式の合唱部なんてのをやるのは――
「……」
――それはそれで、面白い学生生活になるかもしれない。
俺は里奈を見て、ちょっと肩をすくめてみせた。
「いいかもね、そういうのも」
その言葉に里奈は花のような笑顔をみせ、残り3人はもっと凍り付くことになった。
……。
痛々しい沈黙、満足げな沈黙、それを見つめる沈黙――
3つの沈黙が、この場で絡み合った。
・・・・・・
そして――
「あのー」
その沈黙を破ったのは、のんきな明の声だった。
「話、元に戻せる?」
……?
元に、ってなんだ。
「みんな忘れてるけど、その楽譜――」
明は、ツインテールの部員が持ったままの「故郷」の楽譜を指差す。
「――そいつの説明、俺聞きたいんだけど」
「……」
……ああ、その話もしてたな。
でも、本当に合唱部員じゃないお前は、聞く必要ないんじゃないか。
・・・・・・
俺はその楽譜を使った、男声独唱の案を渋々話した。
ひとりきりで歌うという意味も、正しく説明した。
「どう? 合唱部最後の文化祭の舞台で、部員が歌う曲をひとつ奪って部外者の俺が歌おうっていう、この案は」
「……」
生じた短い沈黙を破ったのは、楽譜を持ったツインテールの部員だった。
「輝さん、それは成立するんですか? 全校生徒――おおよそ千人がいる大きな体育館の舞台で、声は届くんですか?」
「さあね」
俺は適当に答えた。
「大失敗するかもしれない」
……。
ツインテールの部員は、俺の目をのぞき込んでくる。
別の答えを、俺に求めている。
――そこまで求めるなら、答えはしようか。
ツインテールの部員に、声をかける。
「ねえ、聞いてもいい?」
「はい」
すぐに返事があった。
「君はできないの?」
それは合唱部員にとって冷たく、そして屈辱的な問いのはずだ。
「できません」
素直な答えが、すぐに返ってくる。
でも、ただ素直なだけなら特に見るべきところはない。それを分かっているか、この部員は。
「なら、コンクールとかで使うホールを思い浮かべて。小さいやつでいい。思い浮かべたら、その舞台に立って。客席を見上げて。ホールの中の空間を意識して」
「はい」
イメージはできたか。その舞台に立ったか。
俺もひとりで同じ舞台に立ち、ずらりと並んだ客席を見上げる。
「この空間全て、ひとりで声を響かせられる?」
「いいえ」
物怖じせず答える姿勢は評価できる。
だが――
「それじゃあ、最後列の客席まで――声、届かないの?」
俺の問いへの解答には、少しだけ時間がかかった。
「……届きません」
「ならソロはどうする? 自分のパートがひとりしかいなかったら? 客席があるってことは、お客さん座ってるよ? そこに声届かないの?」
ツインテールの部員は、歯をぎりっと噛みしめた。
「本来は届かないといけませんが……今の私には、できません」
認めた――技量不足。
だけど、こう正直なのはいい事だ。自分でちゃんと技量不足を認められるなら、練習していけば向上が見込める。
その練習の場は、もうなくなるが。
ツインテールの部員は俺に聞いてきた。
「輝さんはできるんですね、千人のお客さんの前に立って。……少なくとも、できると思ってやろうとしているんですね」
ツインテールの部員は、「故郷」の楽譜をぎゅっと握る。
俺は少しだけ、訂正する。
「やろうとしていた、だよ」
噛みしめられた奥歯が、さらに軋んだように感じられた。
俺はそれ以上、答えることはしなかった。




